Loading AI tools
戦国時代から安土桃山時代の武将・故実家。細川氏(後の肥後藩主家)家臣。小笠原尚清-小笠原稙盛(-1565、稙清、民部少輔、申次、備前)-小笠原秀清。備前守・民部少輔。子に小笠原長 ウィキペディアから
小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士・故実家。室町幕府幕臣・細川氏(後の肥後藩主家)家臣。一般には小笠原少斎[注釈 2]の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。
天文16年(1547年)出生[注釈 1]。永禄元年(1559年)11月27日、12歳で将軍足利義輝に初の目見え[2][3]。
生家の小笠原備前守家は京都小笠原氏の嫡流で、元来奉公衆の一員であったが、将軍義輝のもとで申次衆に編入されていた[3]。「永禄六年諸役人付」では、申次に父稙盛(備前守・民部少輔)とともに小笠原又六(秀清)が記載されている[4]。永禄8年(1565年)5月19日の永禄の変で稙盛は義輝と共に討死したともされるが[5]、変の後も活動が見られることから生存しており[注釈 3]、天正年間に没した[7]。
秀清は永禄の変後に浪人となり、京都深草に住し加々美少左衛門と名をあらためていた[8]。永禄12年(1569年)7月には美濃国岐阜の近辺に居住しており[9]、元亀3年(1572年)正月までには京に戻っている。天正元年(1573年)以前に家督を相続し、天正元年4月には幕臣としての活動が見られることから幕府に再出仕したと見られるが、これ以降幕臣としての活動は見られなくなる。[10]
天正元年(1573年)7月の足利義昭の没落に秀清は随行せず、以後は織田氏政権との関係が見られる[11]。天正9年2月28日の京都馬揃えには、旧幕府関係者と共に秀清も参加したとの指摘もある[注釈 4]。 天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉から知行地を横領され、丹後国の細川藤孝の元に下向[12][13]、客分となり500石(600石とも)を給された[8]。後に剃髪して少斎と号したが、その時期は藤孝と同時の天正10年(1582年)[14]とも、慶長元年(1596年)[5]ともいう。
慶長5年(1600年)6月、細川忠興が会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、川北一成[注釈 5]・稲富祐直(一夢)らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。7月16日、忠興の正室の玉子(ガラシャ)の大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。ガラシャと相談の上、重ねて要求のあったときには自害すると決定した。17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。この後、秀清は屋敷に火をかけて、川北一成らと共に自害した。享年54[1]。秀清の家臣三名もこれに殉じた[1]。
稲富祐直は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。
生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕え、6代将軍足利義教以降、代々将軍の弓馬師範を務める家柄であり、武家故実の中心的存在であった[16]。秀清も武家故実に関与しており、蜷川家文書の武家故実に関するものには秀清の口伝本を書写したものがある[17]。また弓術の日置流雪荷派の伝書などには、始祖の吉田雪荷は秀清から故実を伝授されたとの記述がある[18]。
秀清の子孫は江戸時代を通じ故実を伝えていたが、明治15年、当主小笠原宥(小笠原長厚)の代で出水神社(水前寺公園)に小笠原流の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた[注釈 6]。
秀清の子孫は、細川忠興の近親などと縁戚を結び、細川家の重職を歴任した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.