大光院 (名古屋市)
愛知県名古屋市にある寺院。名古屋四国5番 ウィキペディアから
愛知県名古屋市にある寺院。名古屋四国5番 ウィキペディアから
慶長8年(1603年)、尾張国春日井郡清須に清善寺(せいぜんじ)として創建された[2]。開山の明嶺理察は武蔵国埼玉郡忍(現・埼玉県行田市)の清善寺6世で、松平忠吉は清須城に移ると、城下で廃寺となっていた雲門寺を再興するにあたって明嶺を招き、寺号を清善寺として[3]、当寺も忍清善寺の末寺となった。
忠吉が慶長12年(1607年)に没すると明嶺が授けた忠吉の法名・大光院を取って寺号を改め[3]、慶長15年(1610年)の清洲越しで愛知郡日置村(現・大須2丁目)に移転[3][4]、 山号を日置山としたが元禄年間(1688年 - 1704年)には興國山へと戻している[5]。享保19年(1734年)6月には火災で山門を含めて焼失[5][6]、諸堂が再建されたのは安永8年(1779年)であった[5]。文化5年(1808年)には烏瑟沙摩明王の別殿として明王殿が建立され[4]、腰部の疾病に霊験があるとして女性の参拝が多く[5]、その様子は「尾張名所図会」などにも描かれた。
安政年間(1854年 - 1860年)になると大光院の西側、大須観音や清安寺の墓地に囲まれた通称「北野新地」に旅役者のための宿が作られたが、やがてここに遊女が置かれるようになって事実上の遊廓となった[7]。遊女の外出先として大光院への参拝を許していたことから、縁日には遊女も多く訪れて賑わった[4]。
明治5年(1872年)、諸堂を再建[5]。大正時代には本堂や明王堂、山門、庫裡のほか、開山堂・位牌堂・僧堂・鎮守堂・鐘楼などがあったが[5]、昭和初期の区画整理によって境内地に道路が作られることになり、明王殿などは従来より北に移され、1934年(昭和9年)に開通したこの通りは[8]、大光院の朱塗りの山門から「赤門通り」と命名された[2]。また、僧堂については1939年(昭和14年)に日泰寺へと譲渡されている[9]。
大須は1945年(昭和20年)の名古屋大空襲を受け、大光院も焼失。戦後の戦災復興事業に伴い墓地は平和公園に移設され、焼失した本堂は1957年(昭和32年)、山門は1966年(昭和41年)に再建[4]。本堂・明王殿は後に鉄筋造で建て直され、合わせて境内が石畳となった[4]。境内では毎月28日に縁日が行なわれるほか[2]、毎年10月の大須大道町人祭には多くの大道芸人がその芸を見せる。
前述の様に大光院の墓地は平和公園に移されたが、忍城の水攻めに対抗した成田長親や、尾張藩士の津金胤臣、細野要斎など著名な人物の墓所が置かれていた。
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