地主神社
神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。またその中で特に、京都市東山区の清水寺に隣接する神社を指す。 ウィキペディアから
神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社。またその中で特に、京都市東山区の清水寺に隣接する神社を指す。 ウィキペディアから
地主神社(じしゅじんじゃ)と呼ばれる神社は、以下に大別される。
本項では2.について述べる。
清水寺の清水の舞台を出て直ぐ左手にある神社で、江戸時代までは清水寺の鎮守社で地主権現社といった。大国主を主祭神とし、縁結びの神さまとして若い女性やカップルに人気のスポットである。
社伝によれば、創建は日本建国以前の神代とされる。実際、境内の「恋占いの石」は原子物理学者ライル・ベンジャミン・ボーストによる科学的な年代測定で、縄文時代のものであることが判明している。
平安時代には嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇が行幸した。天禄元年(970年)、円融天皇行幸の際、勅命により臨時祭が行われた。これが今の当社例大祭「地主祭り」の起源である。
社殿は寛永10年(1633年)に徳川家光により再建されたものである。
明治に入り神仏分離令により清水寺から独立して社名を地主権現社から地主神社へと改めた。近代社格制度のもと郷社に列格した。
第二次世界大戦後は、京都周辺の旧民社を中心とする神社が加盟する神社本教に所属しており、1999年(平成11年)からは当社宮司が神社本教主管(代表)を務めている。
ただし「地主神社」という社名から、本来は当地の地主神を祀る神社であるとする説もある。
境内は「地主桜」と呼ばれる桜の名所で、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇が行幸した際、一重と八重が同じ枝に咲いていた地主神社の桜の美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜」とも呼ばれ、以後、嵯峨天皇は地主神社に桜を毎年献上させた。当時の貴族社会では花見の花としては梅が一般的だったが、弘仁3年(812年)には嵯峨天皇が桜の花宴を開いたという記述が『日本後紀』にあり(日本初の桜の花見の公式記録)、これが日本人の桜好きの原点といわれる[2]。謡曲『田村』(清水寺創建の縁起物語と坂上田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品)で「地主権現の花盛り、それ花の名所多しと言えども、この寺の地主の桜にしくはなし」と歌われたほか、『熊野 (能)』『梁塵秘抄』『閑吟集』などでも地主桜の美しさが称賛されている。「えんむすび祈願さくら祭」では白川女による献花と『田村』『熊野』の奉納が行なわれる[3]。
毎月第1日曜日14時より「えんむすび地主祭り」が行われている。
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