勝願寺 (鴻巣市本町)
埼玉県鴻巣市本町8丁目にある浄土宗の寺院 ウィキペディアから
埼玉県鴻巣市本町8丁目にある浄土宗の寺院 ウィキペディアから
勝願寺(しょうがんじ)は、埼玉県鴻巣市本町8丁目にある浄土宗の寺院である。
浄土宗第3祖良忠が鎌倉幕府第4代執権北条経時から箕田郷松ヶ岡(後の鴻巣市登戸)の地を寄進され、一宇を建立したことに始まり、良忠の師である勝願院良遍にちなんで勝願寺と名付けられた[3]。
良忠の没後は門下の良暁、定惠、良順が鎌倉光明寺と当寺の住職を兼任し[5]、光明寺第5世住職・了専の時代には良順の弟子・良意が当寺の住職を務めたが、永享元年(1429年)に良意が没した後は相続する者はなく、浄土宗寺院としての歴史は途絶えた[5]。
その後、室町から戦国時代にかけての戦乱によって寺は荒廃し、宗派も真言宗へと改められた[6]。
なお、創建の時期については建長4年(1252年)とも、正治元年(1199年)とも、文永年間(1264年から1274年)とも[7][2]、文永元年(1264年)ともいわれ[4]、松ヶ岡の地の寄進者については鎌倉幕府第5代執権北条時頼とする文献もある[4][7]。
天正年間(1573年から1593年)、高僧の惣誉清厳が当寺を登戸から鴻巣宿へと移設し、浄土宗の寺院として再興に務めた[8]。
天正7年(1579年)、清厳の隠居に伴い武州松山城主・上田氏一族の出である圓誉不残が当寺の住職となった[9]。
不残は学徳が高く、文禄元年(1592年)2月に徳川家康が当寺を訪れた際に御前で法問論議を行い、家康から銀や玄米や和紙を贈られた[9]。学徳に感銘を受けた家康はすぐに不残に帰依し、随行した伊奈忠政と伊奈忠家、牧野康成らに当寺の檀家になるように命じた[10][11]。
さらに、家康は三つ葉葵の使用を許可、慶長9年(1604年)11月には寺領30石を寄進し[12]、諸役免除となった[11]。家康はたびたび鴻巣および当寺を訪れていたが、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠や3代将軍の徳川家光も家康と同様に当寺を詣でるなど、徳川家との関係は維持された[11]。
当寺は清厳によって中興された当時から学問所、僧侶の養成機関として機能しており、関東十八檀林が成立する以前の慶長2年(1597年)の時点で江戸の増上寺、川越の蓮馨寺、鎌倉の光明寺とともに檀林のひとつとして存在したものと考えられている[3][13]。
当時、浄土宗僧侶の資格取得は関東の寺院に限定され、他の地域での取得は禁じられており、関東檀林の寺院には全国各地から修行僧が訪れた[14]。
慶長11年(1606年)8月、中興二世の圓誉不残が後陽成天皇から僧としては最高位の紫衣を賜ると、その後も徳川家の庇護の下で高僧や名僧を数多く輩出し、いずれも紫衣を賜った[15]。
慶長11年(1606年)、圓誉不残が、信濃木曽谷の中山道奈良井宿にあった真言宗の光岩寺(現在の法然寺を浄土宗に改宗して再興した。
一方、勝願寺の絵図によれば江戸中期の宝永5年(1708年)には16棟ほどの修行僧のための寮(所化寮)が立ち並んでいたが、文化・文政年間(1804年から1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では3棟と記されている[16]ことから、他の浄土宗寺院と同様に学問所・養成機関としての機能は次第に衰退していったものと考えられる[17]。
なお、本寺の末寺としては寛永9年(1632年)の『浄土宗諸寺之帳』や元禄8年(1695年)の『浄土宗寺院由緒書』などによれば下野国の清巌寺、武蔵国児玉郡の円心寺、同埼玉郡の法性寺、同足立郡の十連寺をはじめとした40か寺があり[3]、勝願寺は浄土宗の総本山である知恩院からの伝達事項を各寺に伝える触頭の役割を担っていた[18]。
江戸期の勝願寺の寺勢を象徴するものとして、本堂を中心とした伽藍がある[19]。これは家康の次男・結城秀康が慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの論功行賞により下総国結城から越前国北の庄へ移封された際、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を移築したもので、さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された[19]。これらの建物の移築は伊奈忠次が作事奉行として携わったと伝えられている[19]。
御殿は114畳敷きの大方丈「金の間」、96畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ[20]、大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた[20]。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた[20]。
平成10年(1998年)、国立歴史民俗博物館教授の岡田茂弘や市の文化財保護委員らにより境内の発掘調査が行われ、本堂と大方丈を結ぶ柱穴、大方丈の礎石などが見つかり、御殿の存在が改めて確認された[21]。
明治期に入ると廃仏毀釈により寺勢は低下した[22]。さらに、明治3年(1870年)8月8日深夜の風災により結城御殿が全壊[23]、明治15年(1882年)の火災により本堂、庫裏、鐘楼、仁王門など多くの建物が焼失した[22]。
その後、明治24年(1891年)10月に本堂[22]、大正9年(1920年)11月に仁王門が再建され[24]、
昭和5年(1930年)に龍寿殿が建設された[22]。毎年11月に当寺で催されるお十夜は鎌倉の光明寺や八王子の大善寺とともに「関東三大十夜」のひとつと称されており[24][25]、多くの参拝者が訪れている[26]。
また、境内の一部には明治後期に常設グラウンドが設置され、自転車競技会や競馬競技会などのスポーツイベントを開催[27][28]。
大正から昭和初期にかけて観光のためサクラやツツジが植樹されるなど鴻巣公園として整備され[27][29]、市民の憩いの場となっている[26]。
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