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江戸時代前期の大名 ウィキペディアから
加藤 泰興(かとう やすおき)は、江戸時代前期の大名。伊予国大洲藩2代藩主。官位は従五位下・出羽守。槍術の達人で加藤家伝流槍術の開祖。
慶長16年(1611年)、伯耆国米子藩主・加藤貞泰の長男として米子にて誕生。
しばらくして、加藤家は伊予国大洲藩へ移封となり、元和9年(1623年)に父が死去したため、跡を継ぎ2代藩主となる。なお、江戸幕府から弟の直泰への1万石分与(伊予国新谷藩)の内諾が下されたが泰興はこれを認めず、寛永16年(1639年)に内分分知という形で決着するまで藩内では対立が続いた。
元和10年(1624年)に出羽守に補任される。家臣団編成や軍備強化など、藩政の確立と強化に尽力した。また、大坂城や江戸城の改修、仙洞御所の普請工事、蒲生忠知(伊予国松山藩)改易や生駒高俊(讃岐国高松藩)改易、山崎治頼(讃岐丸亀藩)改易による城の在番などの公役をよく務めている。臨済宗の僧・盤珪永琢に教えを受け、寛文7年(1667年)に福田寺を創建し、山林を寄進した。
また、備中国足守藩主・木下利当より淡路流槍術を学び、加藤家伝流を開き、槍遣いの達人と称された。
延宝2年(1674年)2月25日、嫡孫の泰恒に家督を譲って隠居し、剃髪して月窓と号した。
延宝5年(1677年)閏12月16日に死去。享年67。
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