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中華民国総統の事務機関 ウィキペディアから
中華民国総統府(ちゅうかみんこくそうとうふ、繁体字中国語: 中華民國總統府、英語: Office of the President)は、中華民国の元首および首脳である中華民国総統と、その補佐職である中華民国副総統の事務を担当する政府機関。
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中華民国憲法増修条文の定めるところによれば、総統府は、総統が職権の行使の必要に応ずるに当たり、台北市中正区に幕僚機関として中華民国総統府を設置している[注釈 1][1][2]。又、総統府は、総統の命により府内の事務を総理し、並びに所属職員を指揮監督する秘書長を1人設けている。
この他、総統府は、総統が任命する資政[3]、国策顧問[4]、戦略顧問[5]などの職務を設けており、国家の大計や戦略、国防関連事項の提言を行っている。現在、総統府下には3つの局と3つの室が設けられており、総統府の附属機関として中央研究院、国史館及び国父陵園管理委員会[注釈 2]が存在する[注釈 4][1]。
中華民国建国以前、総督府は江寧府(現:南京市)中部の漢府街にある漢王(明代に陳友諒の後胤が封じられた)府の跡に置かれた[8]。 1853年から1864年の太平天国の乱で太平天国軍に南京が占拠されると、首領の洪秀全は両江総督府を拡張して極彩色に輝く天王府を建設した[8]。1864年に清国軍により太平天国が崩壊して曽国藩により天王府は焼き払われ、天王府が破壊されると、曽国藩は両江総督に昔ながらの総督府の再建を命じた。そして、同治9年(1870年)に再び両江総督府が置かれた。
1911年、辛亥革命が勃発した。1912年1月1日、孫文が初代臨時大総統に就任し、中華民国臨時政府が南京で成立した[9][10][11]。臨時大総統府が両江総督(現在の南京中国近代史遺址博物館)に設立された。同年4月、袁世凱の臨時大総統就任により、中華民国臨時政府は北京へ移り、1913年10月に袁世凱は正式に中華民国大総統に就任して北洋政府が成立した[9]。
1912年3月10日、北洋政府が成立すると、大総統府が旧清朝の陸海軍部庁舎に設置された。その後、北京の中南海にある豊沢園と監国摂政王府が大総統府になり、1927年に蔣介石により国民政府が南京に移転するまでの間設置された。
1945年(昭和20年/民国34年)10月25日、日本の敗戦に伴って中華民国国民政府が台湾を接収し、台湾省を設置した(台湾光復)。これによって日本による台湾の統治は終了した。
1947年(民国36年)12月25日、第二次国共内戦中だった中華民国は1946年(民国36年)の制憲国民大会で制定された中華民国憲法を正式に施行し、国民政府は憲法の定めるところにより、中華民国政府に改編され、中華民国総統が国民政府委員会主席(通称「国民政府主席」)に代わって中華民国の国家元首となり、同時に、予備の元首として中華民国副総統が創設され、総統と副総統が権限を行使するために必要な機関とし中華民国総統府が設置された[1][12]。
1948年(民国37年)3月29日、1946年に制定された中華民国憲法によって設立された国民大会の第1回大会が召集された。当時国内で第二次国共内戦が勃発していた現状に鑑みて、憲法の臨時的な修正条項として4月18日に「動員戡乱時期臨時条款」が制定され、事実上の憲法改正が行われた。これによって憲法本文の一部が凍結され、総統の権限が拡大した[13][14]。
同年4月20日に行われた総統選挙で、国民政府主席に代わる新たな元首職として総統が創設された。憲法の定めるところにより、国民大会で初代総統及び副総統選挙が行われ(総統及び副総統選挙は別々に実施)、当時の国民政府主席で[注釈 5]、中国国民党(国民党)所属の蔣介石が総統に当選した(副総統は同党所属の李宗仁)[17][18]。1948年5月20日、蔣介石は中華民国の初代総統に就任[19][20][21]。
5月20日、南京の総統府(現:南京中国近代史遺址博物館)で蔣介石と李宗仁の総統・副総統への就任式が行われ、国民政府の主要機関は総統と副総統の官房機構である総統府に改組され、総統府と行政院、立法院、司法院、考試院、監察院の「一府五院」から成る中華民国政府が成立し、憲政体制が正式に確立された[22]。
1949年(民国38年)12月7日、国共内戦で中国大陸の領土を失った中華民国は、政府機構を台湾省台北市に移転し、総統府は「介寿館」(現在の総統府)に入居した。中華民国政府は台湾への移転後も大陸時代の政府機構を維持しつつ台湾での統治体制を固め、「動員戡乱時期臨時条款」を施行し続けた。また、1949年5月20日に施行していた台湾省戒厳令も、蔣介石の後継者である蔣経国によって1987年(民国76年)7月15日に解除されるまで継続した。
一方、「中央民意代表機関」たる国民大会・立法院・監察院は欠員補充のための選挙を除く本格的な改選が1991年(民国80年)まで停止され、1947年から1948年にかけて選出された第1期国民大会代表・立法委員・監察委員の任期が無期限に継続することになったため、「万年国会」と揶揄された[23]。
1996年(民国85年)3月23日には初の直接選挙による総統選挙が実施され、李登輝が総統、連戦が副総統に当選した[24]。この一連の民主化措置によって、中華民国はそれまでの権威主義体制から、「中華民国憲法」第2条の「主権在民」の原則を実行する民主共和国家へと変貌し、「国民主権」を代表するようになった中華民国政府は、より強い合法性と正当性を得ることになった[25][26][27]。
本来、総統は行政に関与せず、五院の正副院長や構成員の任命や、五院間の調整役であった。そのため、総統府そのものは、総統官房機構としての役割を持っている。総統府組織法(1948年5月1日公布、1996年1月24日改正)により、総統府の組織や役職が定められている。
蔣介石は事実上軍事力を背景に君臨し、彼が総統の職を占めていた。そのため、総統府にも軍人のポストが多いばかりか、戒厳令を口実に総統が直接行政決定を下すため、もう一つの官房機構として国家安全会議と国家安全局が設けられた。民主化後も、総統府と国家安全会議の組織はおおむね維持されている。
—(中華民国の法律)、中華民国総統府組織法第1条、[7]
—(中華民国の法律)、中華民国総統府組織法第2条、[7]
原文:總統府置秘書長一人,特任,承總統之命,綜理總統府事務,並指揮、監督所屬職員。
参考訳:総統府は、総統の命を承け、総統府の事務を総理し、並びに所属職員を指揮監督する秘書長一人を特任で置く。[注釈 3]—(中華民国の法律)、中華民国総統府組織法第9条第1項、[7]
原文:總統府置資政、國策顧問,由總統遴聘之,均為無給職,聘期不得逾越總統任期,對於國家大計,得向總統提供意見,並備諮詢。
参考訳:総統府は、無給職且つ総統の任期を超えない期間で資政、国策顧問を置き、総統がこれを任命し、国家の大計について総統に提言し、並びに諮問する。[注釈 3]—(中華民国の法律)、中華民国総統府組織法第15条第1項、[7]
原文:總統府置戰略顧問十五人,上將,由總統任命之,對於戰略及有關國防事項,得向總統提供意見,並備諮詢。
参考訳:総統府は、戦略顧問十五人を上将で置き、総統がこれを任命し、戦略及び国防関連事項について総統に提言し、並びに諮問する。[注釈 3]—(中華民国の法律)、中華民国総統府組織法第16条、[7]
—(中華民国の法律)、中華民国総統府組織法第17条、[7]
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