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フランスカペー朝の9代目の王 ウィキペディアから
ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日[2])は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。アメリカの都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスは、Saint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。
聖ルイ9世 | |
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証聖者 | |
列聖日 | 1297年7月11日 |
列聖決定者 | ボニファティウス8世 |
記念日 | 8月25日 |
内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わった挙句、陣没した。
1226年に父王ルイ8世の崩御により12歳で即位したが、母ブランシュの摂政下にあった。ブランシュは優れた政治手腕により、アルビジョア十字軍を継続し、諸侯の反乱を抑えた。
元々フランスの諸侯は独立性が強く、祖父フィリップ2世と父の時に抑えられていたが、幼君の下で反抗、陰謀、反乱などがしばしば起こった。1228年の諸侯の反乱では、一時、ルイ9世が捕らえられる危機にあったが、都市(コミューン)の市民の支援を受け、これを恐れた反乱諸侯は撤退した。1230年にブローニュ伯、サン=ポル伯などが、ブランシュと親しかったシャンパーニュ伯チボー4世を攻撃したが、この調停に成功している[3]。1235年にはチボー4世が親政を始めたルイ9世と対立し、反乱を起こしたが、これを鎮圧している。
1229年にトゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を締結し、アルビジョア十字軍を終結させ[4]、同年5月27日、サンスでプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の長女マルグリットと結婚し[5]、親政を始める。後にマルグリットの妹達はイングランド王ヘンリー3世、ルイの弟シチリア王シャルル・ダンジュー等と結婚する。
ポワチエのラ・マルシェ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンは、父ユーグ9世の元婚約者でイングランド王ジョンの未亡人だったイザベル・ダングレームと再婚していた。イザベラはイングランド王ヘンリー3世の母であり、イングランドでは王太后扱いを受けていた。しかし、ルイ9世の弟ポワチエ伯兼トゥールーズ伯アルフォンスへの「臣従の誓い」の際に単なる臣下の妻として扱われた為、これを侮辱だと激怒し、夫と息子ヘンリー3世を扇動して、1241年にポワチエで反乱を起こさせた。
しかし、ルイ9世が鎮圧を始めると配下の城は次々と降伏し、これを見たイングランド諸侯はヘンリー3世を見捨てて勝手に帰国した。ユーグ10世夫妻は降服したが、比較的寛大な条件で許されている。ヘンリー3世は大陸に所有していたガスコーニュを占領されたが、以前失っていたノルマンディーやアンジューを正式に放棄する代わりに、ガスコーニュの領有を認められるという寛大な条件で和解した。
国内外の平和を取り戻すと、ルイ9世はかねてから悲願の十字軍(第7回十字軍)の遠征を計画し始めた。1244年にエルサレムは再びイスラム教勢力により陥落していたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はローマ教皇インノケンティウス4世と対立しており[6]、イングランド王ヘンリー3世は国内の反乱の対処で忙しく、西欧で十字軍に行ける余裕があるのはルイ9世だけだった。第1リヨン公会議で十字軍遠征が検討されたが、ルイ9世もこの会議に参加している。
フランス内部にも反対の声は強かったが、ルイ9世は押し切り、1248年に出発した。アイユーブ朝のエジプトを攻撃したが、敗北して捕虜となり、占領地を全て放棄した上に莫大な身代金を支払って撤退した。こののち、ルイ9世は聖地イェルサレムへ巡礼の旅に出ている[7]。その一方でイスラム教に対する同盟国を見つけるため、1253年にフランシスコ会員ウィリアム・ルブルックをモンゴルへ派遣した。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とローマ教皇の対立や教皇庁内部の対立(教皇と対立教皇のあいだの対立)の調停を行い、「ヨーロッパの調停役」の役割を果たし、1264年には、「第2次バロン戦争」においてヘンリー3世とイングランド諸侯の調停をしている。ルイ9世は「公正な調停者」と尊敬されていたが、調停にもかかわらず、争いそのものは続いた。
晩年になると健康の不調で先が長くないと感じ、崩御する前に再び十字軍(第8回十字軍)を起こす事を望んだ。1270年に出発し、イスラム圏であったチュニジアを攻撃したが、飲用水が劣悪だったことや熱さにより病気がはびこり、ルイ9世も同地のチュニスでペストに罹患し、陣中で病没した[7][8]。最期の言葉は「イェルサレム」だったという。
同行していた息子のフィリップは帰国してフランス王に即位した。ルイ9世は、崩御後27年の1297年にカトリック教会により列聖されている。
ルイ9世に仕えた騎士ジャン・ド・ジョアンヴィルにより、詳しい伝記『聖王ルイの生涯』が残されている。
芸術を保護し、ゴシック様式や建築が栄えた。パリは芸術の中心となり、その影響はヨーロッパ中に及んだ。ルイ9世が作らせたサント・シャペルもヨーロッパの多くで模倣された。
後に列聖されるように敬虔なキリスト教徒で、
しかし、政治に宗教の影響を与える事はせず公正に統治した。
マルグリットとの間に6男5女が生まれた。
ルイ9世の評価は見方によって2通りある。
いずれも高潔で敬虔な人物であったという評価は共通である。
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