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ボブ・ホープ KBE KCSG(Bob Hope KBE KCSG, 1903年5月29日 - 2003年7月27日)は、イギリス生まれのアメリカ合衆国の俳優、コメディアン。本名、レスリー・タウンズ・ホープ(Leslie Townes Hope)。
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ボブ・ホープ Bob Hope | |||||||||||
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1978年撮影 | |||||||||||
本名 |
レスリー・タウンズ・ホープ Leslie Townes Hope | ||||||||||
生年月日 | 1903年5月29日 | ||||||||||
没年月日 | 2003年7月27日(100歳没) | ||||||||||
出生地 | イギリス、ロンドン エルタム (en) | ||||||||||
死没地 | アメリカ合衆国、カリフォルニア州 トルカレイク | ||||||||||
国籍 | イギリス → アメリカ合衆国 | ||||||||||
職業 | 俳優、コメディアン | ||||||||||
活動期間 | 1930年代 - 1990年代 | ||||||||||
配偶者 |
グレース・ルイーズ・トロクセル (1933) ドローレス・デフィーナ (1934 - 2003) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『腰抜け二挺拳銃』、『アフリカ珍道中』、『ザ・シンプソンズ』 | |||||||||||
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殿堂表彰者 | |
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選出年 | 1983年 |
20世紀のアメリカを代表するコメディアンの一人であり、ブロードウェイでの演劇やラジオ、映画、テレビ、軍隊での慰安興行への出演など、広く活躍した。その皮肉な毒舌と機知で広く親しまれ、1930年代から1990年代まで第一線級の芸能活動を続けた。
ホープはロンドンのエルタム(en, 現グリニッジ区)で、7人兄弟の5番目として生まれた。父親のウィリアム・ヘンリー・ホープはウェストン・スーパーメア出身の石工で、母親のエイヴィス・タウンズはウェールズ出身のライトオペラ歌手であった。一家はウェストン・スーパーメア、ホワイトホール、ブリストルのセント・ジョージで暮らし、その後1907年にアメリカ合衆国のオハイオ州クリーブランドに移住する。ホープは1920年にアメリカ合衆国の市民権を得た。
アメリカに移ったホープは、コメディアンになる以前、「パッキー・イースト」の名でプロボクサーであったことがある。
伝記作者アーサー・マルクスによれば、ホープは最初の妻グレース・ルイーズ・トロクセルと1933年1月25日に結婚した。彼女はホープの1928年からのヴォードヴィルのパートナーであったが、二人はすぐに離婚した。
彼は二番目の妻ドローレス・デフィーナと、伝えられるところによれば1934年2月19日に結婚している。彼女はブロンクス出身で、ドローレス・リーデという芸名でナイトクラブで歌っていた。ドローレスの出演していたマンハッタンのナイトクラブ、ザ・ヴォーグで出会った彼らは、二ヶ月後には結婚していた。二人はイリノイ州エヴァンストンの孤児院から四人の子供を引き取り、子どもたちはホープの死まで共に暮らした。
ワーナー・ブラザースの短編コメディーに何本かの主演後、ホープの映画での人気に火がついた。
ホープが映画界で名を上げたのは、1938年のミュージカル映画『百万弗大放送』(原題: "The Big Broadcast")で演じた、豪華客船の船内放送アナウンサー役である。劇中でホープが女性歌手シャーリー・ロスとデュエットしたバラード『思い出によみがえる』(原題: "Thanks for the memory" ラルフ・レインジャー作詞、レオ・ロビン作曲)は、美しいメロディとハイブラウな歌詞を兼ね備えた曲で大ヒットし、作者のレインジャーとロビンはその年のアカデミー賞主題歌賞を受賞した(このデュエット1曲のおかげで、助演の筈のホープとロスは主役を喰ってしまった)。ホープはそれ以来『Thanks for the memory』の歌詞に手を加えてソロ・ナンバーとしたものを自分の持ち歌とし、生涯にわたってテーマソングとした(後世まで広く歌い継がれる大スタンダードになったため、コメディアンのテーマにはもったいないほどの佳曲である、とする評が多い)。
最も有名な作品としては、ビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアと競演したパラマウント映画のドタバタロードムービー「珍道中シリーズ」 (1941-) や、『私の愛したブルネット My Favorite Brunette』(1947) があげられる。『珍道中』シリーズは、ホープとクロスビーの掛け合い、楽屋落ちギャグを連発したことで人気を博し、また歴史に残るスタンダードナンバーを多く生み出した。
日本で広く知られたホープ主演映画としては、1948年のミュージカルコメディ西部劇『腰抜け二挺拳銃』が挙げられる。グラマー女優ジェーン・ラッセルと共演したこの映画で、ホープがアングロ・コンサーティーナを抱えて歌ったノベルティ・ソング『ボタンとリボン』(原題: "Buttons And Bows" レイ・エヴァンス作詞、ジェイ・リビングストン作曲)は、英語を解さない当時の日本人にも「バッテンボー」の歌として広く親しまれた。またこの作品のヒットによりホープ主演作の多くが日本では『腰抜け』シリーズとして公開された。
ホープは主演男優賞など通常のアカデミー賞を受賞することはなかったが、映画芸術科学アカデミーは敬意を表し、2度のアカデミー賞特別名誉賞、2度の特別賞およびジーン・ハーショルト人道賞(Jean Hersholt Humanitarian Award)で5回の表彰を行っている。
1950年代から1980年代までアカデミー賞のホストを数回に亘り務めたが、1968年の授与式では“Thanks for the memory”の演奏と共に堂々登場して挨拶を始めるや「アカデミー賞へようこそ、まあ、我家では過越の祭り(Passover)といわれているが(Welcome to the Academy Awards. Or as it's known in my house - Passover)」とのぼやき混じりな台詞を残している。アカデミー賞獲得のため野心むき出しに行動する俳優をスティーヴン・ボイドが演じたハリウッド内幕物映画『オスカー』(1966年)では、ホープは授賞式のホスト役を演じた。
ホープの最も得意とする分野はスタンダップ・コメディアン(漫談家)としてのライブステージであり、新聞報道によれば、1940年の8週間のツアーではその当時の記録である10万ドルを受け取っている(大衆車のフォードの新車が1台700ドル近辺で買えた時代である)。ただ、翌年、彼は無償でショーを行っている。
1941年5月6日にカリフォルニア、マーチ・フィールドで、ホープは最初の米国慰問協会(United Service Organizations, USO)のショーを行ない(アメリカはその時点では参戦していない)、その後、アメリカが参戦した第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争から、湾岸戦争まで、約60年間に亘っておよそ60回の慰問ツアーを行っている。ホープは親友のビング・クロスビーとともに、第二次世界大戦中にアメリカ海軍の少佐として召集されるところであったが、ルーズベルト大統領が、軍の全部門の活動を今まで通り続ける方が兵士の士気を高めると考え介入、これを回避させ[1]、以降は、慰問活動を通じて軍隊との関係を持った。おそらくは、史上もっとも熱心に軍人慰問活動に取り組んだ芸能人の一人であろう[独自研究?]。
ボブ・ホープの放送における経歴は64年に及び、特にNBCとの関係は深い。そのキャリア初期の1930年代中期に、彼の人気を形成したのはラジオスターとしての活躍であった。彼の映画での出世作となった『百万弗大放送』自体、ラジオスターたちを映画に出演させようとする企画の一つだったのである。
テレビの試験放送期にあった1932年に、すでにCBSのテスト送信でテレビ出演をしている(ホープが1937年にラジオ・デビューをした時までは、NBCはラジオ放送のみであった)。最初のNBCラジオのレギュラー番組は「ウッドベリー・ソープ・アワー」で、1年後に、ペプソデント歯磨き提供の最初の冠番組を始めた。
アメリカで最も有名なボブ・ホープの番組は、数十年続いたテキサコ提供のNBCクリスマススペシャルであろう。オープニングは彼の持ち歌である『Silver Bells』をオリヴィア・ニュートン・ジョンやブルック・シールズといった女性ゲストとデュエットするというものであった。最後のスペシャルは、1996年、ゲストのトニー・ダンザと一緒に、アメリカの歴代大統領を迎えるというものであった。
ボブ・ホープは熱心なスポーツファンとして有名で、プロボクサーの経験があり、ハスラーでもあり、フットボールは見るだけでは飽きたらず、NFLのロサンゼルス・ラムズに共同オーナーとして参画している。また、1950年代にはMLBのクリーブランド・インディアンスのオーナーとして経営にも参画していたことがある。
ゴルフファンとしても有名で、PGAツアーの出場経験もある。彼にちなんで命名されたボブ・ホープ・クラシックは46年の歴史を刻んでいた。さらに、アイゼンハウアーからジョージ・W・ブッシュまで、アメリカのほぼすべての大統領とゴルフをプレーしている。1983年に世界ゴルフ殿堂入りした。しかし2012年にヒューマナがスポンサーとなり彼の名称であったボブ・ホープの名称は消滅した。
なおホープ本人は、漫談のステージにもしばしばステッキのようにゴルフクラブを提げて立ち、漫談の途中でも持ち替えたり振り回したりしていた。このためゴルフクラブはホープのトレードマークの一つとまで化していた。
また、1949年8月にアメリカのロサンゼルスで行われた競泳の全米選手権に参加して400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を樹立して「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)として一躍有名になった古橋廣之進を激賞し、ハリウッドを訪れた古橋にサインを求めるなど幅広いスポーツに関心があったことが窺える。
実際には、ギャグのネタ自体は専属のギャグライターを多数雇って書かせていた。従ってセコいネタも少なくなかったのであるが、それでもアドリブのうまさが超一級であったため、聴衆受けは良かった。
非常に長寿であったので、生前の死亡記事という類い希な体験を(よりによって)2回も経験している。1回目は、1989年、AP通信社により誤報がなされ、アメリカ下院で追悼演説が行われる椿事となった。2回目は、有名人の死亡記事の準備稿が、パスワード保護のミスによりCNNのウェブサイト上で公表されたというものである。
当のホープは一向に「くたばる」こともなく、2003年5月29日には、100歳の誕生日を祝った。アメリカで100歳を迎えた著名なエンターテイナーとしては、他に「ホワイト・クリスマス」などを作った大作曲家アーヴィング・バーリン、コメディアンのジョージ・バーンズ、俳優のチャールズ・レイン、グロリア・スチュワート、カーク・ダグラス、オリヴィア・デ・ハヴィランドがある。ロサンゼルスのハリウッド大通りとバイン・ストリートの交差点は、ボブ・ホープ・スクエアと名付けられ、35のアメリカの州で「ボブ・ホープ・デイ」と宣言された。
ボブ・ホープ自身は、1937年以来住むハリウッドの北トルカレークの自宅でひっそりと誕生日を祝った。100歳になってさえ、「非常に年を取ったので血液型までなくなってしまった(I'm so old they've canceled my blood type.)」と冗談を言って、彼のユーモアセンスが老いていないことを証明した。
100歳の誕生日を祝った2か月後の2003年7月27日、午後9時28分に、肺炎のため自宅で死去した。娘のうちの一人によれば、臨終にあたって埋葬法を尋ねられた時、ホープは「何かびっくりさせてくれ。"Surprise me."」と妻に伝えたとのことであった。埋葬地は、カリフォルニア州ロサンジェルス、サンフェルナンド墓地。
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