ハーバード大学
アメリカ・マサチューセッツ州にある私立大学 ウィキペディアから
アメリカ・マサチューセッツ州にある私立大学 ウィキペディアから
ハーバード大学(ハーバードだいがく、英語: Harvard University、略称:HU)は、マサチューセッツ州ボストン近郊のケンブリッジに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学。
ラテン語: Universitas Harvardiana | |
モットー | Veritas |
---|---|
モットー (英語) | Truth |
種別 | 私立、研究大学 |
設立年 | 1636年 |
資金 | 約370億ドル |
学長 | アラン・ガーバー(暫定学長) |
教員数 | 2,400人 |
学生総数 | 22,000人 |
学部生 | 6,700人 |
大学院生 | 15,200人 |
所在地 |
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ケンブリッジ 北緯42度22分28秒 西経71度07分01秒 |
ノーベル賞受賞者数 | 160 |
スクールカラー | クリムゾン |
スポーツ | 42チーム |
ニックネーム | Harvard Crimson |
NAICU AICUM AAU URA | |
公式サイト |
harvard |
イギリス植民地時代にマサチューセッツ湾植民地政府が1636年に設置したアメリカ最古の大学で、学部・大学院ともに各種ランキングで常に上位に位置する名門校としてアイビー・リーグの一角を占める。校名は創設初期の献金者だったジョン・ハーバードの名前にちなむ[1]。
2023年時点で在籍中の学部生・大学院生の数は2万5000人超、教員数約2万人に達する[2]。また大学が行ってきた投資と寄付による大学基金の残高は、507億ドル(約7兆8000億円)と全米最大である[3][4]。
卒業生は政財界から学術分野まで幅広い分野に広がっており、2018年時点で8人のアメリカ合衆国大統領[5]、160人のノーベル賞受賞者(世界1位)・14人のチューリング賞受賞者・48人のピューリッツァー賞受賞者が出ているほか、32人の元留学生が母国で国家元首となっている[6]。また2017年に億万長者(資産10億ドル)となった卒業生の数188人も、全米の大学で最多である[7]。
2024年時点の学部合格率は3.6%と全米最難関のグループで[8]、1年間の学費(教材費・生活費など含まず)は約5万9000ドル(約920万円)と発表されている[9]。
2024年5月現在、同大学経済学部教授であるアラン・ガーバーが暫定学長に就いている[10]。
イギリス領マサチューセッツ湾植民地時代の1636年9月18日、植民地総督トマス・ダドリーの活動により、植民地メンバーの議決権を認めた初めての議会が招集された。そこで「学校またはカレッジ」新設のために資金を支出することが議決されたため[11]、これが創立年とみなされている。創立時は男子校で、1650年には法人化された。
当初はピューリタン(清教徒)の聖職者を育成する機関として創設され[12]、設立当初の目的は「社会と教会の指導者を育成する」となっており、教育標語はヨハネ福音書17章3節から取った「神とその子キリストを知る」であった。創設時から始まった神学教育は、1816年に専門大学院のハーバード大学神学大学院/神学校(Harvard Divinity School)の設立へと繋がった。神学大学院/神学校はハーバード大学の専門大学院としては1782年に設立された医学部(ハーバード大学医学大学院/Harvard Medical School)に次いで、2番目に設立された大学院となった[13][14]。現在でも神学校の卒業式にはプロテスタント関係者が参加するなどの関係がある。また、キャンパス内にある『ハーバード大学記念教会』では宗教関連の行事が開かれ、毎年、高尚な説教が行われる伝統があり、世界の宗教指導者や常駐する聖職者が教壇に立つたびに、新たな歴史が生まれている。教会は、メンバーの洗礼、結婚式、誓約式、葬儀、追悼式などにも利用され、全ての訪問者を温かく迎えている。教会の前にある300周年記念劇場(Tercentenary Theatre)として知られるオープンエリアでは、大学の卒業式(学位授与式)が行われる[15][16]。この300周年記念劇場を中心にして広がる芝生の広場である『ハーバードヤード』はハーバード大学の最古の部分であり、これを取り囲んで、大学の最も重要な施設があり、上記の記念教会のほか、大学の主要図書館である『ワイドナー記念図書館』、学長を含む幹部職員のオフィス、いくつかの教室と学部棟が建っている。
ハーバードは拡大とともに一般教育機関として成長し、新しい科目や、自由な教育方針が導入されるようになった[1]。とくに18世紀初頭にジョン・レバレット(John Leverett)が学長に就いたのちこの傾向が加速し、学内の施設が大幅に拡充されるとともに、入学者数も急増していった[1]。
1782年の医学部設立とともにカレッジからユニバーシティ (University) となる[17]。1817年にはハーバード・ロー・スクールが設立された[18]。
1879年に創立されたラドクリフ女子大学とは長く提携関係にあったが、1970年代にいたって施設と教員を共有する連携カレッジ制度が創設され、ラドクリフのすべての学位がハーバードから授与されるようになった。1999年にラドクリフが正式にハーバードと合併し、男女共学の学部機関となっている[1]。
校風はリベラルと言われることもあるが、政財界の中枢で活躍する卒業生を多く輩出しており保守的とみなされることも多い[1]。2023年の調査では、教員の77%が自らを「リベラル寄り」とみなしている[19]。
大学の中核キャンパスは、ボストン近郊ケンブリッジにある上述のハーバードヤードを中心に広がっているが、3キロほど離れた場所にキャンパスがあるマサチューセッツ工科大学を筆頭に周辺には60を超える大学があり、国内有数の学園都市を形成している。
College/school | 設立年度 |
---|---|
Harvard College | 1636年 |
Medicine | 1782年 |
Divinity | 1816年 |
Law | 1817年 |
Dental Medicine | 1867年 |
Arts and Sciences | 1872年 |
Business | 1908年 |
Extension | 1910年 |
Design | 1914年 |
Education | 1920年 |
Public Health | 1922年 |
Government | 1936年 |
Engineering and Applied Sciences | 2007年 |
ハーバードには後述する12の大学院(スクール)があり、このうち文理大学院にのみ学部(Faculty of Arts and Sciences)が付設されている。この学部のことをとくにハーバード・カレッジと呼んでいる。
学生の専攻は、他の大学のようにmajor(メイジャー)とは呼ばず、concentration(コンセントレイション)と呼ばれる。その他、他の大学とは学期試験(2セメスター制)の時期が異なるなど、ハーバード大学独自の方式や伝統が見られる。
学部教育は、創設当初すべて文学・哲学などリベラル・アーツだったがしだいに拡充され、現在は物理学・天文学・機械工学などの学科が加わっている[20]。
同じケンブリッジにあるマサチューセッツ工科大学(MIT)とは、単位交換などができる姉妹校として基本的に協同的な運営が行われている。近年、MITとハーバード大学の共同事業としてブロード研究所が設立されるなど関係が深まる一方、工学系が弱かったハーバード大学でも工学系学科の充実が行われつつある。
大学院は、ハーバード大学文理大学院などのほか、ハーバード・ビジネス・スクールなど12の専門職大学院とラドクリフ研究所で構成されている。
その多くは各種ランキングで最上位に位置しており、とくにロースクール(第4位、2023)[21]やメディカルスクール(第1位、2023)[22]などが名高い。
ハーバードはアメリカの名門大学の中でもとくに成功した教育機関とみなされることが多く[24]、多くの卒業生が政財界・学術分野で成功を収めていることなどから、各種大学ランキングではつねに最上位グループに位置している[25]。また全米最高額の大学基金を運用することで図書館や体育館など学内施設の更新・充実がさかんに行われており、この点でも大学ランキングでは高い評価を受けている[25]。
世界大学ランキングセンターが2024年5月に発表したランキングでは、世界の大学全体で第1位[26]。
USニュース大学ランキング(2023年)
THE世界大学ランキング
QS大学ランキング
フォーブズ大学ランキング
ハーバード大学で本格的な日本研究が開始されたのは、1931年、ロシア生まれの東洋学者セルゲイ・エリセーエフが教員として招聘されたときとされている[30]。エリセーエフは日本語が堪能で、明治末期に東京帝国大学に滞在して夏目漱石や谷崎潤一郎らとも交流を深めた。
エリセーエフが着任後に始まった日本学研究で、最初の生徒の1人がエドウィン・ライシャワーである。ライシャワーは日本生まれ・日本育ちですでに日本語を話すことができたが、ハーバード大学院に入学後、エリセーエフからの薫陶を受けて東洋学全般への造詣を深めた[31]。ライシャワーは円仁『入唐求法巡礼行記』を扱った論文で学位を受けたのち、日本学研究者としてハーバードに着任した[32]。
第二次大戦後にライシャワーがエリセーエフに次いでハーバード大学の日本研究を主導するようになると、日本学は戦前の東洋学から切り離され、独立した地位を持つことになった[31]。図書館や教員数が大きく拡充されたのもこのときである[31]。
ライシャワーは1961年にケネディ大統領から在日アメリカ大使に任命され、6年間滞在するなど日本の政財界ともつながりを深めた。このときに知己を得た日本の富裕層からの寄付が、さらにハーバードの日本研究環境を充実させ、現在でもアメリカにおける日本研究の拠点としてはコロンビア大学などと並んで重要な位置を占めている[31]。
ライシャワー研究所を中心にハーバード大学は多くの日本研究者を育て、日本からの研究者・芸術家らの滞在も多数受け入れている[1]。また古くは小村寿太郎・山本五十六から、現在の雅子皇后[33]までハーバードに留学した著名人も数多い(「ハーバード大学に関係する日本人の一覧」を参照)。
人種構成
2022年時点でハーバード大学の人種構成は、白人が最も多く36%、アジア系21%、ヒスパニック系12%、黒人11%で、このほか外国籍の学生が11%を占める。[39]
卒業生
超富裕層(UHNW、Ultra High-Net-Worthの略)に関するリサーチや評価を行うWealth-Xが資産が3000万ドルを超える超富裕層がどの大学に通っていたかを分析した結果(Wealth-Xは学部と大学院両方の学位所有者を卒業生としてカウント。修了証書取得者・名誉学位受賞者・中退者などは集計から除いた)、2017年に発表した時点で、ハーバード大学出身者は全米一位の1,906人いると報じられた[40]。
上級生向けに12の学生寮(ハウス)がある。三月上旬に行われるハウジング・デイ(Housing Day)で 二年生からどこの寮で暮らすのかが知らされ、夏休み明け直前に一斉に引越しをする。二年生以上も、一年おきに部屋が変わる。それぞれの寮に教授が住んでおり、教授宅でのパーティを始めとしたイベントは多岐に渡る。
12寮それぞれがマスコットキャラクター・旗・色を持っており、3月頭に行われるHousing Dayではそれぞれの寮をモチーフにしたビデオを撮影・公開したり、オリジナルのユニフォームを作ったり、着ぐるみを着たりと様々な個性・工夫が凝らされキャンパスは賑わいを見せる。
またダドリー・ハウスはハーバード13番目のハウスとして、大学院生を組織化している。ハーバード大学が、不動産部門、アパートを持っており、大学院生のための住居を斡旋している。コナントホールなどの大学院生専用居住施設もある。
学生が代表を務める学部生徒会と大学院生徒会は、12の大学院および専門職大学院の学生を代表するもので、ほとんどの大学院および専門職大学院にも学生自治会がある。[41]
ハーバードヤードには、大学事務や1年次の学生が住む寮のほか、学生戦死者を祈念して作られたメモリアル教会、タイタニック号沈没で息子を失ったワイドナー夫妻によって設立されたワイドナー記念図書館、ロマネスク様式建築のセバーホールなどの建築物がある。
ヤード周辺には、南北戦争の戦死者を祈念して作られたメモリアルホール、科学教育施設であるサイエンスセンター、デザイン学関係のガントセンターなどがある。
また、西洋美術のフォッグ美術館、東洋美術のサックラー美術館、ガラス製植物標本で有名な自然史博物館など、常設公開施設もあり、多くの観光者が訪れる場所となっている。
ハーバードホール(1766年)、マサチューセッツホール(1720年)、ホールデンチャペルのある付近がハーバード大学の一番古い部分であり、オールドヤードと呼ばれる。ユニバーシティーホール(1815年、ワシントンDCアメリカ合衆国連邦議会議事堂と同じチャールズ・ブルフィンチ設計)の裏側のメモリアル教会、ワイドナー図書館がある部分は、6月に卒業式が行われる広場でターセンテナリー劇場という。[注 2]
ワズワースハウス(Wadsworth House)は1726年建築で、19世紀半ばまで学長の住居だった。独立戦争時にジョージ・ワシントンが司令部を置いたことで知られる。
南北戦争の戦死者を祈念して作られたゴシック風建築。内部は、サンダース劇場と呼ばれるコンサートホールになっている。毎年9月末恒例のイグノーベル賞(ノーベル賞のパロディー賞)の授賞式はここで行われる。下部は、ロッカーコモンズと言われ、学生食堂、溜まり場になっている。
ハーバード大学最古の美術館。西洋美術、印象派やピカソの作品が有名。連結したブッシュ・ライジンガー美術館は、北欧美術。
ハーバード大学の教授であった博物学者ルイ・アガシーの理想である『Study Nature, not books(書籍でなく自然から学べ)』を実現した博物館。鉱物学地質学博物館、比較動物学博物館、有名なガラス製植物標本があるハーバード大学標本館・植物博物館からなっている。ピーボディー考古学・民族学博物館と物理的に接続している。ルイ・アガシーは、大森貝塚を発見したエドワード・S・モースと師弟関係にある。
ホリオキセンター(Holyoke center)はハーバード大学の運営事務棟。一階には、ハーバード大学の案内所などがある。学生によるハーバード大学ツアーの開始点。
ザ・コープ(英: The Coop)ハーバード大学生協であるが、マサチューセッツ工科大学にもある。ハーバードスクエアには、書籍を扱う店とハーバードグッズを扱う店[43]の2店がある。
ハーバード大学に入学した学生は、1年次をハーバードヤードとその周辺にある寮で過ごすが、2年次から4年次卒業までは、「ハウス House」と呼ばれるシステムに属し、大部分の学生がハウスに寄宿する全寮制となっている。ハーバード大学のハウスは、ハーバードヤードからチャールズ川の間を中心に12個ある。それぞれのハウスには、専攻、学年、人種の違う学生が400人ほど集まり、専任の教員がいて指導が行われ、同窓会組織も強い。日本の皇后雅子がハーバード在学中に寄宿したローウェルハウスなど、外観が優美な建築物も多い。
ハーバード大学図書館は1638年に創設され、アメリカで最も古い図書館である[44]。 学内に分散する図書館群を合計すると1530万冊の蔵書を持ち、学術図書館として世界最大級の規模を誇る[44]。この規模は、米国議会図書館に次いで全米2位の蔵書数であり、世界では米国議会図書館、大英図書館、フランス国立図書館に次いで4位となっている。
図書館システムの中心にあるのは、ワイドナー記念図書館であり[44]、その他、90個あまりの図書館を有する。例えば、多数の日本語書籍を所蔵するイェンチン図書館やカウントウェイ医学図書館などがある。
2005年1月、サマーズ学長が、「科学や工学の分野で秀でた業績を残した女性が少ないのは、男女間に生まれつきの素質の差があるからだ」という趣旨の発言をし、世界中に配信された[46]。これをきっかけに、ハーバードカレッジの教員会が、サマーズ学長を不信任とする決議を採択している。2006年2月21日、同年6月に学長を辞任することを発表した[47]。
2012年5月、リベラルアーツ学部で行われた政治学(「連邦会議入門」)の試験で学生たちのカンニングが発生した。後日、学年の約半数にあたる125名が退学や停学、仮進級といった処分を受けた。この5月の試験は「Take Home Exam」と呼ばれ、出題された課題を学生は自宅で答案(レポート)としてまとめて提出するものであった[48]。
この試験は、インターネット等の資料の閲覧が認められるものの、丸写しや他の学生との相談による作成は認められていない。しかし多数の学生の答案の回答ぶりがどれも酷似していたことから、大学側が調査を開始し、学生たちの不正行為が判明した。一部の学生側からは、特定の学生のノートをコピーして資料として使用したもので、答案作成そのものを相談して作成した訳ではない、との弁明が出されたが、大学側は大量処分に踏み切った[49]。
2015年9月21日、ハーバード大学は、2014年春に行なった学内での性的暴行、レイプ被害の調査結果を発表した[50]。その結果、ハーバード大学の4年生のうち、3分の1近くが在学中に様々な形での非合意の性行為と性的接触を受けていた、ハーバード大学4年生の女子学生では、そのうち、29.2%が非合意の性行為と性的接触を受けたと回答し、27校の平均値である27.2%を上回っていたという。ハーバード大学のドルー・ギルピン・ファウスト学長は9月21日、全学生と教師あてにメールを送り、そのメールの中で、この状況に対する憂慮を表明した[50][51]。
2023年6月15日、ペンシルベニア州ミドル地区連邦検事事務所は、同大医学部の遺体保管責任者ら6名を、献体された遺体から臓器を密売した疑いで起訴した[52]。
ハーバードと地理学
アメリカ合衆国最高の教育水準を保つハーバード大学であるが、地理学に関しては1956年以降地理学者がいない状態が続いている[56]。ハーバード大学は、かつて地形輪廻を提唱したウィリアム・モーリス・ディヴィスや環境決定論で知られるエルズワース・ハンティントン、人文地理現象を自然との関係で捉えようとしたイザイア・ボウマンなどの地理学者を輩出してきた[56]が、1948年2月に財政難を理由に地質・地理学科の地理学部門の閉鎖が決まった[56]。
実際には地理学者エドワード・アッカーマンの準教授への昇任をめぐる駆け引きがきっかけとされ、学内からはエドワード・アルマン、学外からはリチャード・ハーツホーンやカール・O・サウアーが地理学部門を守るために尽力したが、結局廃止に追い込まれた[56]。
杉浦芳夫は、『二〇世紀の地理学者』の中で卒業生のイザイア・ボウマンが時のハーバード大学総長ジェームス・コナントに存続を働きかけていたら、状況は変わっていたかもしれないと述べている[56]。しかしボウマンは、同じ政治地理学分野で考えの合わなかったダウエント・ホイットルセーがハーバード大学で教鞭を執っていたこともあってか、コナントに働きかけをすることをしなかった[56]。閉鎖にともなってアッカーマンはシカゴ大学へ、アルマンはワシントン大学へ移籍し、最後まで残ったホイットルセーは、1956年に急死し、ハーバード大学の地理学は終焉を迎えた[56]。
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