アーロ
スペインの町 ウィキペディアから
スペインの町 ウィキペディアから
アーロ(スペイン語: Haro)は、スペイン・ラ・リオハ州のムニシピオ(基礎自治体)。エブロ川の流域にあり、リオハ・アルタ地区に属する。カトリック教会のカラオラ・イ・ラ・カルサダ=ログローニョ司教座が置かれている。
北はブルゴス県ミランダ・デ・エブロと接している。西はビリャルバ・デ・リオハ、シウリ、アングシアーナ、カサラレイナと接している。南はヒミレオ、オリャウリ、ロデスノ、サラトンと接している。東はブリニャス、アラバ県ラバスティーダと接している。
北西から流れてきたエブロ川と、南西から流れてきたティロン川(エブロ川の支流)は、アーロで合流する。河川の豊富な水量は森やポプラ並木の景観を可能にし、果樹園に灌漑用水を供給している[2]。
アーロは三つの丘に囲まれている。カスティーリョ・デ・ラ・モタ丘、アタラヤ丘、サンタ・ルシア丘である。その他のサント・ドミンゴ丘には貯水槽が設置されている。
地中海性気候と海洋性気候の影響を受ける。年平均気温は12.6℃、最も寒い1月の平均気温は約5℃、最も暑い8月の平均気温は20.6℃である。冬には霧が発生する。降水量は、年間平均504ミリメートルであり、月別では、多い時で、58ミリメートルである。[3]
アーロの名前の由来についてははっきりしたことは分かっていないが、20世紀の歴史学者ドミンゴ・エルゲータによる説が有力である。ドミンゴ・エルゲータは、この地方が航行できたので、エブロ川とティロン川の合流点を照らしたラ・モータの丘の灯台を管理していた田舎町の存在について主張している。スペイン語で「灯台」は「faro」であり、エルゲータはfaroがやがてHaroに変化したと推測している。古代ローマが支配する以前のこの地域にはベローネスと呼ばれるケルティベリア人が居住していた。
ローマ領ヒスパニア時代、カストルム・ビリビウム (Castrum Bilibium) という名の砦が作られた。5世紀頃、ギリシャ人たちはファロ (Pharo) と呼んだ。アラブ人占領時代の9世紀にはワディ・アルム (Wadi Arum) と呼ばれた。
初めて歴史上に名を残したのは1040年、ナバラ王ガルシア・サンチェス3世の文書で、ビリビウム・クン・ファロ (Bilibium cum Faro) とあった。[4]1063年の文書には、町にユダヤ人共同体があったことが記されていた。1187年、カスティーリャ王アルフォンソ8世はアーロにフエロ(特権)を授けた。同時に、ユダヤ人共同体にアルハマ(en、特権)を授けている。1358年8月6日、ビトリア、ログローニョ、ナヘラ、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ、ミランダ・デ・エブロ、トレビーニョ、ブリオネス、ダバリーリョ、ラバスティーダ、サリニーリャス・デ・ブラドン、アニャーナ、ラ・プエブラ・デ・アルガンソン、ペニャセラーダ、サンタ・クルス・デ・カンペーソの町の代表がアーロに集い、犯罪者や権力者に対して町々が協力するために条例が作られた。
1430年、フアン2世は、ペドロ・デ・ベラスコをアーロ伯 (Conde de Haro) とした。1811年のカディスでのコルテスで、世襲貴族による大土地所有が廃止されるまで、アーロはベラスコ家に支配された。
1520年には、カルロス1世の特権を初めて受けた。1710年、アーロはフェリペ5世に忠誠と服従を誓った。18世紀初頭のスペイン継承戦争時には、アンジュー公フィリップの妃マリア・ルイサとわずか3歳であったアストゥリアス公ルイ(のちのルイス1世)がアーロへ避難した。継承戦争終結後、新王フェリペ5世はアーロの町にMUY NOBLE Y MUY LEAL(最も王に忠実で最も高貴)という称号を与えた。
13世紀前に建てられた。今日ではその城は何らの形も残っていない。国王の所有であった。またアタラヤとして知られているモータの丘にあった。その維持と防御はカステイーリャのアルフォンド8世が13世紀の後半にユダヤ人達に与えた特権をなくすことによって、ユダヤの住民達の責任となっていた。
アーロのロペス・デイアス3世がレオンおよびカステイーリャのサンチョ4世によって暗殺された後の1288年に、ロペスの忠臣達と住民達のカステイーリョでの力が強まった。サンチョ4世はエル・アラバルを取り、その住民達をビヤボーナとして洗礼した。彼はその当時までアーロに属していて、多くの権威と特権のアーロの地名を消させた土地に廷臣達を呼び集めた。カステイーリョの場所は2ヶ月以上続いた。その後で、国王の味方達がその町を押しつぶし、城壁を壊し、住民達を略奪した。城を守り、アーロの忠実な協力者であるとの理由で、闘いの後でさらにもっともこらしめらながら(特権と財産を失って)、多くのユダヤ人達の犠牲者が出た。国王はアーロに自軍を集結させた。その当時、アーロの地は、アロー家が所有していて、歴代の国王の権力が及ばない治外法権を有する地であった。城の包囲は2ヵ月以上にわたり、その後、城を制圧した国王軍は、城壁を壊し、住民を略奪した。多くのユダヤ人が犠牲者となった。そしてさらに、ユダヤ人は城の警備にあたり、アーロ家の忠実な協力者であったため、戦いの後、彼らは最も重い処罰を受け特権と所有権を失った。
1808年、アーロはナポレオン率いるフランス軍に占領され、町にはフランス軍の本部が置かれた。ジョセフ・ボナパルトが行政府を設置した初めての地となった。1833年にはログローニョ県が設立され、アーロはブルゴス県の行政区域を離れた。第1次カルリスタ戦争中の1834年3月13日、バシリオ・ガルシアが率いるカルリスタ(カルロス主義者)と自由主義者がサンタ・マリーア・デ・エレーラ修道院近くで戦った。敗走した自由主義者の一部は農場労働者に紛れたが、一部はエブロ川に架かるブリニャス橋を渡ろうと試み、その大半はブリニャス橋周辺での戦闘で死んだ。ブリニャス橋にはカルリスタ戦争の慰霊碑が建てられている。1901年と1902年の2年に渡り、アーロ周辺のブドウ畑がフィロキセラに冒されて被害を受けた。
ヘレス・デ・ラ・フロンテーラが最初に電気式の街灯を導入してから、アーロも電気式街灯を導入した。(なお、1990年にこれを記念してヘレス・デ・ラ・フロンテーラと姉妹都市連携を結ぼうとしたが、取りやめとなった。)[5]そして、この時代に、「アーロ、パリそしてロンドン」、「ようやく明かりのあるアーロに到着したよ」(賛歌の歌詞にも含まれている)、というフレーズが生まれた。1877年8月26日に、アーロのラ・ミネルバ(La Minerva)という製粉-肥料工場に電灯が初めて設置された。その電灯は、サンタンデールのコルコー・エ・ヒホース社によって作られた発電機によるものであった。そのころ社は時代の流れでオーストリア-ハンガリー式(製粉機)から工業的電灯を試作するその地方初の工場に変わっていた。1888年頃、ガス灯による街路灯には問題があったので、1889年1月のはじめ、電灯の設置に関する議案が議会に提出され、調査委員会が作られた[5]。その年の12月31日、電気による公共の街路灯の敷設のための最初の基礎工事が行われた[5]。1890年1月31日に、ようやく最初の電灯の場所や拠点が発表された。1月26日にはフランスのベニート市長によって承認され[5]、その後3月10日にその装置に対する最初の競売では入札者がひとりも現れないことがわかった[5]。その出品番号は業務による報酬を改善して、5月15日に再び入札を提示、そしてゴンサロ・エルナンデス・スビアウレだけが現れ、その人と5月23日に契約を正式に結ぶこととなった[5]。それらは夜通し照明する1000燭光の強さのアーク灯電灯8個および16燭光の白熱電球260個であったに違いなかった。そして発電機は直流でなければならなかった。1890年9月7日、ついに平和の広場にて、電気式街灯の本格的な最初の設置が完了し、実用化となる予定だったが[5]、またもや光の機能に問題があったので修理され、1891年1月1日にようやく、平和の広場の初の本格的な電気式街灯が、実用化した[5]。
カスティーリャ国王のフアン2世はペデゥロ・フェルナンデス・デ・ベラスコをメディーナデルカンポの王国議会開催中、第一アーロ伯爵に任命した。それはアラゴン国王であるフアン2世との抗争中に借りた助力に対する恩義故のものであった。ディエゴ・フェルナンデス・デ・ベラスコ・イ・パチェーコとその妻フランスィスカ・パウラ・ベナビーデス はその領有地の支配権を持っていたが、1811年に貴族制度が廃止されたことによりアーロ家最後の伯爵となった。ディエゴの死去もその同じ年であった[6]。
アーロ首長一覧 | ||
---|---|---|
在任期間 | 名前 | 政党 |
1979-1983 | フランシスコ・マテ・バリオ (1979-1980) ミゲル・ロハス・カストリーリョ(1980-1983) | 無所属 スペイン社会労働党 (PSOE) |
1983-1987 | ミゲル・ロハス・カストリーリョ | スペイン社会労働党 (PSOE) |
1987-1991 | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
1991-1995 | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
1995-1999 | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
1999-2003 | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
2003-2007 | リディア・ロハス・アギーリョ(2003-2004) パトリシオ・カペリャン・エルビアス(2004-2007) | スペイン社会労働党 (PSOE) 国民党 (PP) |
2007-2011 | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
2011-2015 | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
2015- | パトリシオ・カペリャン・エルビアス | 国民党 (PP) |
アーロの人口推移 1842-2011 |
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[7]、1996年 - [8] |
アーロの盾は赤地の上に銃眼付き胸壁が描かれている。この胸壁はレンガ造りであり、門や窓が付けられている。胸壁の両側には、大きな二頭のライオンが後ろ足で立ち上がっている。盾の上部には公爵の王冠がかぶせられ、下部は金羊毛で縁取られている。
自治体旗はカスティーリャ地方に典型的なバーガンディ色(赤地)の下地の中央部に盾が描かれている。[9]
公式な賛歌はカストゥルム・ビリビウム(Castrum Bilibium)、もしくはアーロ・ラ・ビエハ(Haro la Vieja)と呼ばれている。エリセオ・ピネード・ロペスがこの賛歌の詩節を、ミゲル・デ・ラ・フエンテ・アルバレスが反復句の部分を作曲し、エンリケ・エルモシーリャ・ディエスとホセ・フェルナンデス・オリェーロが作詞した[10]。1942年9月7日に初上演された。[10]同年11月6日に市庁舎で行われた会議で、ビクトリアーノ・ピネイロ・ビカリオ市長の提案のもと、公に広められた。[11]
「アーロの水壺」は1914年10月24日まで、長いあいだ使われていなかったが、ホセ・フェルナンデス・オリェーロ市長が市の公的書類を調査中に、偶然発見した。そして市議会にそのことを伝え、議員らの承認を得て、現在まで市長執務室に展示してある。オリェーロ市長によると、水壺の起源は自治体首長を決める選挙にあるという。選挙に用いるために、水壺の中に穴の開いた粘土製の袋を入れ、さらにその袋の中に投票用紙を入れていた。「アーロの水壺」は1980年代にミゲル・ロハス市長によって自治体の報奨として制度化された。[12]
1975年4月10日、旧市街が重要文化財(BIC)の中のConjunto Histórico Artísticoに指定された。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が町を通っている。
1863年にナバーラ地方南部のトゥデラとバスク地方のビルバオを結ぶ鉄道路線が開通し、1880年にはワイナリーが集まる地区にアーロ駅が開業した。2004年にはより市街地に近い場所にアーロ=エル・パルド駅が開業し、ミランダ・デ・エブロ、ログローニョ、バリャドリッド、サラマンカなどに向かう列車が停車するようになった。[28]2007年には、ビルバオやバルセロナとアーロを結ぶ列車が廃止されたが、その後、バスク地方やカタルーニャ地方とアーロを結ぶ列車は部分的に復活した。[29]現在のアーロ市内の鉄道駅には1日あたり4本の列車が停車するのみである。1916年から1964年までは、ラ・リオハ州西端部のエスカライとアーロを結ぶ狭軌路線が運行されていた。今日では路線跡の一部が緑道となっている。
アーロには「シッド・パテルニーナ宮殿」、「カスタニャレス・デ・リオハ通り」という2つのバス停がある。ミランダ・デ・エブロとログローニョを結ぶバス路線(VLR-113系統)がアーロを通っており、これに加えて、ナヘラ行き、カンタブリア州サンタンデール行き、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ行き、ビトリア=ガステイス行き、ビルバオ行きのバス路線もある。アーロにはビルバオとアラゴン州サラゴサを結ぶ高速道路が通っている。2005年9月には、44の都市で共通のタクシーサービスがアーロにも開通した[30]。
アーロからエブロ川のほとりまでには大規模なポプラの地帯が広がり、ヨーロッパミンクが生息し、ヨーロッパの自然保護ネットワークナチュラ・2000に登録されている。オハ川には、マス、ナマズ、コイなどの魚、リスコス・デ・ビリビオ山にはヨーロッパウズラが生息している。また、アーロ内の公園などでは、ギンドロやセコイアデンドロンなどがみられる[31]。
アーロで行われている第一次産業は主に、穀物、ビート、ジャガイモの栽培であり、羊が主に家畜されている。また、1919年には採石の産業も開始された[32]。
アーロには二つの工業地帯が存在し、また、鉄道駅の近くにはスーパーマーケットとワイナリーが存在する。
スペイン最大のワイン産地として知られるリオハ (DOC)の中でも、アーロは特にワイナリーが集中する町である。1877年に設立され、現存する家族経営の生産者としてはリオハ最古のワイナリーであるロペス・デ・エレディア[33]、1879年に設立され、フェリペ皇太子とレティシアの結婚式で「インペリアル1994」が使用されたCVNE(クネ)社、ビルバオ出身の実業家によって1901年に設立され、アーロ駅前にワイナリーを構えるボデガス・ビルバイナスなどがある[34]。アーロにはリオハ州立ワイン博物館があり、リオハ地方のブドウ栽培・ワイン生産に関する展示がなされている[35]。毎年6月29日の聖ペドロの祝日には、聖フェリセス・デ・ビリビオの巡礼祭という伝統的な祭礼が行われ、参加者たちが水鉄砲などを使ってワインをかけあうバターリャ・デル・ビノ(ワインの戦い)が行われる。
アーロには蚤の市のイベントがしばしば開催されており、また、ワインによる観光地としても知られている。
アーロには二つ星、三つ星、四つ星のホテルが存在し、オハ川の近くにはキャンプ場が存在する。また、旧市街にはタパスや飲み物が提供されるバルが並んでいるエリアがある。
アーロには、いくつか帯水層が存在し、毎日約250万リットルの水を消費しており、ビジャローバル・デ・リオハとの境目に海峡が位置している(1995年3月9日に建設された[36])。2006年には人口が増加し、市は約400万リットルの水を消費するようになった[37]。最近ではオハ川の水を供給し、硝酸塩の濃度を減らすプロジェクトが進められている[38]。
アーロには発電所が存在し、カズクリータ・デ・リオ・ティロン、ティルゴ、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ、バニャーレス、カスタニャーレス・デ・リオハ、カサラレイナにエブロ川から処理水を送り、送電している[39]。
アーロには、2つの公立の小学校と、1つの中等教育が行われる学校が存在し、また、音楽学校や語学学校も存在する。
アーロにはいくつかの保健センターが存在し、ラ・リオハ州の保健ネットワークで管理されており、また二次救命処置が行われる病院も存在する。また、アルツハイマー病患者や[40]高齢者のための養護施設も存在する。都市部では赤十字社も活動しており、電話で112(緊急番号)を発信すると、赤十字社のメンバーも同行してくれる[40]。
アーロでは、今日は、単一の会社による葬儀ホームでの葬儀が多い(アーロの葬儀ホームは高速道路近く工業地帯に位置している。)。かつて、サンタ・ルシア丘に1805年にできた墓地があった[41]。また礼拝堂の近くには墓地が存在し、埋葬されている人の多くは、コレラの流行時にコレラに感染し、亡くなった人たちである[42]。
アーロでは、地元警察(スペイン)と[43]グアルディア・シビルの兵舎が存在する。アーロで活動するボランティア団体は、1985年に市民保護を形成した[44]。
アンテナ・3・ラジオとの協力により、1985年以来、カデナ・SER、カデナ・ディアル、カデナ・コペ、の3つのラジオ局がアーロには存在し、エル・コレオや[45]、ラ・リオハ(新聞)などの新聞配達員もアーロに派遣されている。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、フランスの自治体を通過した後、最初にフランスとの国境線があるスペインのイルンにつながり、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ、ブリニャスを通過した後、アーロにやってくる。[48]
アーロの伝統料理は、多くの場合、園芸農業で生産された野菜が使われる。その料理として、スペイン風野菜シチュー、リオハ風ポテト、ピキーリョ料理、肉詰めピーマン、カパローネス、ソパ・デ・アホ、ポロネギサラダ、ポーチ豆料理、ヨーロッパウズラの卵料理、が挙げられる。アーロの伝統料理で人気なのは、ラムを使った料理であり、内臓、睾丸などの部位が食されている。夏になると、アーロでは、アサードがよく食べられており、中でも、チョリソー、ブラッドソーセージ、ミートチョップはラ・リオハではアサードの定番の具である。
アーロは、季節によって食べる料理が異なる。例えば、受難週の時には、アーロではドーナツやカタツムリが食べられたり、ズラカポーテというカクテルが飲まれる。また、謝肉祭の日には、タイセイヨウダラや豚ロース肉などが食べられる。
アーロで行われるイベントは、主に守護聖人を祀るものと、ベガの聖母を祀るものが多い。
アーロでは、サンタ・ヴェラ・クルス・デ・アーロの兄弟を祀る。
その他にも、フットボールクラブは、アーロでは数多い。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.