最初に登録された形状は、箱型ではなく10t級のUM5形末期に登場した『平荷台』タイプ(通称、ハーフ型)が、石川島播磨重工により自社製品の建築資材(パイプ類)輸送用として、初登録された。その後、同社増備分は『天井スライド式』を採用した本形式では初となる箱形で登録および、別構造となった久留米運送より『屋根脱着式』の箱形が、連番で登録された。しかし、一転して特殊化学製品の三塩化チタニウムや、アルキルアルミニウム専用容器の専属輸送用に『平荷台』タイプを応用した『親子型』が、1 - 10年ほどの間隔で複数回に分けて登録され続けた。
その後、需要低迷等によりこれらの言わば、専属的に登録された以外では、同タイプで日本フレートライナーから車輪輸送用として、クレーン荷役時の融通がききやすい『平荷台』が1個のみ登録されるも、これを最後に以後は全て新会社となったJR貨物により新形式での登録となる。
0番台
- 石川島播磨重工業(現、IHI )所有。自社製品の建築資材(パイプ類)輸送用のために、1971年6月に東急車輛横浜製作所で、10 ft形コンテナとして製作された。
- 構造は天井がまったくなく、また四側面の開口部位(いわゆる積み込み口)は、片側面の一箇所のみで中央から左右に独立した二枚のあおり戸開き式の『平荷台型』であった。総重量5.9 t(積荷は5 t)、容積は6.1 m3・床面積は6.9 m2であった。また、空コン時に段積み保管する便利性を考慮して、コンテナ上部面(天井部位)には緊締金具類は無いものの、段積みができるような強度を有していた。ただし、段積み状態での輸送は一切できない。
- 基本的な輸送区間は、東京地区(品川駅 ・ 汐留駅 ・ 隅田川駅)から、関西地区 ・ 中国地区 ・ 九州地区などであった。しかし、出典に完成時の記録画像が掲載されてはいるものの、それ以外での情報は現在でも実際の輸送風景や固体画像などの情報が一切出て来ないなど、ある意味謎めいたコンテナであった。
- 石川島播磨重工業所有。自社製品の建築資材(パイプ類)輸送用のために、1971年7月に東急車輛横浜製作所で、10 ft形コンテナとして製作された。
- 構造は片妻側一方観音開き構造を兼ね備えた、『箱型天井スライド式』であった。総重量6.7 t(積荷は5 t)、容積は12.9 m3 ・ 床面積は6.85 m2であった。もともとは、国鉄コンテナのC12形を完全コピーしたこの屋根スライド式は結局、私有コンテナとしては最初で最後の製作事例となった。
- 基本的な輸送区間は、前記の『平荷台型』と同じく東京地区(品川駅 ・ 汐留駅 ・ 隅田川駅)から、関西地区 ・ 中国地区 ・ 九州地区などであった。しかし、出典に製作中の記録画像が掲載されてはいるものの、それ以外での情報は現在でも実際の輸送風景や固体画像などの情報が一切出て来ないなど、このタイプもある意味謎めいたコンテナであった。
- 久留米運送所有として、1971年に富士重工宇都宮製作所で、高さは2.350mmの箱形屋根開閉式、12 ft形として登場した。落成時の運用は、東京地区(品川駅 ・ 汐留駅) - 九州地区(兵小倉駅 ・ 博多港駅)間であった。また積荷は雑貨品を輸送していたものの、コンテナの積荷重量を4 tまでと低めに設定したために、総重量が5.5 t(自重は1.5 t)となっていた。これは、例えば1970年に登場した20 ft級の10 t積み汎用コンテナ(UC5形)でも、国鉄が承認していた総重量は12.3 t(最大積載量は10 tまで)ながらも、登録された大量のコンテナの中には積載トラックの性能が現在より劣っていたり、積載品目の内容あるいは納品先の環境や都合による車重制限などの諸事情[補足 2]により、総重量が10 t(最大積載量は8 t程度)に自主制限していた事例と同じである。
- このコンテナは、主に三つの特徴を備えていた。
- 第一の特徴として、もともと箱形コンテナの四隅には鋼製の垂直柱を軸としてコンテナの外枠を作り、さらに柱間の壁と屋根でコンテナ全体を形成して、段積み時の数十 tにもおよぶ垂直加重にも耐えられる。しかし、後述する天井部位と同程度の特殊な構造の開口部を備え、この開口部位を全開した状態で真下に備わる四隅の鋼製柱の形状は、垂直に四角い鋼製柱を薪割りのように半分に割ったイメージとなる比較的幅の細い長方形状の鋼製柱で垂直加重を直接受ける。さらに柱四本のうち、一か所の柱を基点として上下二か所(計四か所)のヒンジで取り付けられた、L字形二方式開きとなる片妻壁 ・ 片側面開き式のドアが備わり、これがいわゆる各種の箱形コンテナの基本的な積み込み口となっている。
- また現在のように、肉厚が薄くても高強度を誇る特殊鋼も登場していない時代下で、現在の四隅柱と変わらない細幅サイズの長方形柱で一時的なドア開放状況がらも、屋根板無しおよび、片妻壁と片側壁なしで段積みに十分耐えうる強度を備えたコンテナが、半世紀以上も前に登場していた当時の製造技術は【特筆】に価する。
- 第二の特徴として、前記でふれたL字形二方式開きドアのうち、片妻側ドアの真上部位を真横に覆っている梁(別名 ・ カモイ)の両端それぞれが、垂直柱の最上部をヒンジのピン止め基点として反対側のピンを抜くと、外側に向かって約270度程(側面壁に寄り添う位置まで)回転してクレーンや、フォークリフト荷役の便利性を高めている。
- また同時に両側のヒンジピンを抜いて、梁その物を撤去する事ができる。ただし外した梁面には、左右に分かれるドアロックの上部側受け金具(メス側)が取り付けられているので、この状態では観音扉を閉めることはできない。
- そして最大の特徴は、屋根面の構造にある。例えば、1970年6月に始まった先輩に当たる20 ft形10 t級のUM5形中で、箱形で登録された無蓋コンテナ全量(169個)や、同年に国鉄所有の試作品としてM90形で採用されていたある意味、定番の仕様として屋根部位全面には防水仕様のシート類を掛けて屋根開口部を保護していた。
- しかし、当コンテナではこの定番のシート方式が継承されず新しい方式として、屋根板部位が本体外周数値(長さ3,658 mm、幅2,438 mm)と比べて一回りほど小さい開口部を備えて、この開口部に本体の地上高2.350 mmを超えない範囲で内蓋式の天井板をはめ込んで、路面のマンホールに段差のない蓋をするイメージとなる『箱型屋根脱着式』として製作された。また通常、天板の脱着作業ではクレーンあるいはフォークリフトを使うが、天板表面(外側面)にはフォークリフトの爪が差し込めるように、ズボンのベルト通し穴状の専用バンド枠が一列につき、前後二箇所を一組として天板中央に横二列に設置されている。これにフォークリフトの二本爪を同時に差し込み、コンテナをフォークリフトで持ち上げるイメージで脱着作業をおなっていた。
- 運用面では、このUM1形式中での最大数の保有者であったにもかかわらず現在でも実際にコンテナ車や、トラックでの輸送風景画像は見当たらない。逆に登録から13年後の、遅くとも1984年の撮影画像では、すでに長期間にわたって運用から外れて明らかに使用停止状の態野ざらし状態で、首都圏のトラックターミナル内で段積み留置されている姿がさらされていた。また後年には、地方の営業所などでも放置状態で留置されていたことなどから、現状では登場後に比較的早く引退していたと思われる。
- 東洋ストウファーケミカル(現、東ソー・アクゾ)所有。積荷は、ありふれた日用雑貨品から高級車などの各種化学製品のオレフィン系プラスチック製造には、必要不可欠な触媒として使われる三塩化チタニウムの輸送用として、1973年に富士重工宇都宮製作所にて、12 ft形の『親子型コンテナ』として製造された。総重量6.4 t(積荷は4.9 t)、高さは1,100 mm以上で[補足 3]、両側対面形のアオリ戸式であった。また荷役方法は、積荷の特異性により屋根のない天井部位から、すべてクレーンで行なった。
- 積荷は危険性が非常に高く、さらに特殊な品質のために取り扱い上の安全性確保と、品質保持のために窒素を密封充填した専用容器を『子コンテナ』としていた。また、積載土台となる『親コンテナ』では、コンテナ1個当り最大で6本を輸送することができた。輸送区間は、周防富田駅管内の工場から安治川口駅 ・ 塩浜操車場 ・ 玉前駅などが管轄する顧客であった、合成樹脂 ・ 化学繊維メーカーへ往復輸送(帰路は空容器の回送)されていた。また、そのほかにも化学工業地帯を抱える神栖駅や、四日市駅などでも取り扱われていたとする記述も散見するが、確たる出典は見当たらない。
- このコンテナは特殊構造の私有コンテナとしては比較的長寿命で、時期不明ながらも2000年前後まで継続的に使われていたが、製造方法の変更により需要がなくなり廃コンとなった。
- 前記の90 ・ 91 とまったく同じ内容で、追加増備分として1973年に製造された。
- 前記の90 ・ 91 とまったく同じ内容で、追加増備分として1976年に製造された。
- 日本石油輸送所有、東洋ストウファーケミカル(現、東ソー・アクゾ)借受。無蓋コンテナでは初となるリース契約により、特殊コンテナで多くのリース実績のある日本石油輸送により借り受ける形で、1986年に東急横浜製作所にて、12 ft形の親子型コンテナとして製作された。四側面の開口部は、両側対面形の観音開き方式であった。
- もともとは私有コンテナ制度ができる以前から根強い需要があり、特定の荷主が所有していた超危険物であるアルキルアルミニウムを詰め込んだ横長の特殊な小型タンクを、国鉄が所有していた無蓋貨車の一部車両を改造した専用車として、特定区間を往復輸送(復路は空タンクを回送)していた。しかし、1984年2月1日付けで従来からの『ヤード集約輸送』が全国一斉に廃止された影響で、無蓋貨車輸送が一切できなくなってしまった。
- この打開策として、『平荷台型』を応用して親側コンテナの容姿は多少ちがうものの、輸送できなくなった子側の特殊な横長小型タンクを専用金具で固縛して、二個積載して貨車時代同様に往復輸送していた。また、危険性の高い積荷の関係で関連法令により特殊な消化剤などの保安用具を収めた赤色の専用箱も、コンテナ内の一角に設置されている。このコンテナは、令和に入っても当初の登録個数よりは減少しているものの、その後に新形式となったUM8C形で増備された固体とともに、当初のリース契約継続状態で稼動している。
- 日本フレートライナー所有。国鉄広島工場にて、製造年不明[補足 4]で製作された。12 ft形の、総重量6.3 t(積荷は5 t)であった。積荷は主に車輪を輸送していたために、クレーン荷役に最適な天井がまったくない『平荷台型』であった。ただし、四側面の開口部位(いわゆる積み込み口)は一切ないというある意味、荷役はすべて天井開口部位からという珍しい構造であった。
- また空コン時に段積み保管する便利性を考慮して、コンテナ上部面(天井部位)には緊締金具類は無いものの、段積みができるような強度を有していた。ただし、段積み状態での輸送は一切できない。