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BRM・P126は、ブリティッシュ・レーシング・モータースが1968年および1969年のF1世界選手権に投入したフォーミュラ1カー。ロータスおよびイーグルのデザイナーであったレン・テリーが設計し、彼のワークショップであるトランスアトランティック・オートモーティヴ・コンサルタンツで製作され、BRM製3.0リッターV12エンジンを搭載した。
BRM・P126、2009年のグッドウッドフェスティバル | |||||||||
カテゴリー | F1 | ||||||||
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コンストラクター | ブリティッシュ・レーシング・モータース | ||||||||
デザイナー | レン・テリー | ||||||||
先代 | P115 | ||||||||
後継 | P133 | ||||||||
主要諸元[1] | |||||||||
シャシー | マグネシウム合金製 モノコック | ||||||||
トレッド |
前:1,575 mm (62.0 in) 後:1,575 mm (62.0 in) | ||||||||
ホイールベース | 2,375 mm (93.5 in) | ||||||||
エンジン | BRM P142 2,998 cc (182.9 cu in) V12 自然吸気 ミッドエンジン | ||||||||
トランスミッション | 5速 マニュアル | ||||||||
重量 | 565kg | ||||||||
燃料 | シェル | ||||||||
タイヤ |
グッドイヤー ダンロップ | ||||||||
主要成績 | |||||||||
チーム |
オーウェン・レーシング・オーガニゼーション レグ・パーネル・レーシング | ||||||||
ドライバー |
ペドロ・ロドリゲス リチャード・アトウッド ピアス・カレッジ | ||||||||
コンストラクターズタイトル | 0 | ||||||||
ドライバーズタイトル | 0 | ||||||||
初戦 | 1968年南アフリカグランプリ | ||||||||
|
BRMは、1966年と1967年にH16エンジンの開発に注力した。しかし、これは成功せず、マクラーレンに供給していたV12エンジン - BRM・P142 - を開発の主力に据えた。このエンジンを元にテリーは新たなモノコックを開発したが、彼はBRMに所属していたわけではなく、独立したデザイナーであった。したがって、P126はBRMが製造しなかった初のBRMのレーシングカーとなった。
テリーは、12気筒エンジンのための新たなスペースフレームを構築した。エンジンは元々1967年のスポーツカー、ミラージュM2用に製作された物であった。このエンジンは1気筒当たりバルブを2つ装着し、360馬力を発生した。当時のエンジンの大半は1気筒当たり4バルブを採用していた。車体はモノコック構造で、ギアボックスはヒューランド製の5速マニュアル、車重は540kgであった。P126は3台が製作され、1台はレグ・パーネル・レーシングに供給された。
オーウェン・レーシング・オーガニゼーションは、ペドロ・ロドリゲスを起用した。開幕戦の南アフリカグランプリでは予選を10位で通過し、決勝では燃料システムトラブルでリタイアした[2]。その後、ロドリゲスはP133とP138を使用したが、チームはリチャード・アトウッドを起用して6戦でP126を走らせた。モナコグランプリでアトウッドは予選を6位で通過し、決勝は2位に入賞した[3][4]。ベルギーグランプリでは予選18位、決勝はオイルパイプの破損でリタイアした[5]。オランダグランプリでは予選15位、決勝は7位になる[6]。フランスグランプリでは予選12位、決勝7位となる[7]。イギリスグランプリでは予選15位、決勝はラジエター破損でリタイアとなった[8]。ドイツグランプリでは予選20位、決勝14位となった[9]。
イタリアグランプリでは、アトウッドに代わってボビー・アンサーが起用された。アンサーは予選序盤でファストタイムを記録してアメリカに帰国し、インディアナ・ステート・フェアで開催されるフージー・ハンドレッドに出場してから、翌日にはミラノに戻ってグランプリに参戦するつもりであった。グランプリのオーガナイザーは、グランプリの始まりから24時間以内に別のイベントに出場することを禁じるルールから、アメリカに帰国してレースをした場合グランプリへの参加を禁じると発表した。そのため、アンサーはアメリカに帰国し、グランプリには出場しなかった[10]。その後、オーウェン・レーシング・オーガニゼーションはP133の開発に注力した。
レグ・パーネル・レーシングは1968年シーズン、ピアス・カレッジを起用した。スペイングランプリでは予選11位、決勝は燃料ポンプトラブルでリタイアした[11]。モナコグランプリでは予選11位、決勝はシャシーの問題でリタイアする[12]。ベルギーグランプリでは予選7位、決勝はエンジンブローでリタイアとなった[5]。オランダグランプリでは予選14位、決勝はスピンでリタイアとなった[6]。フランスグランプリは予選14位、決勝6位となりシーズン初完走となった[13]。イギリスグランプリは予選16位、決勝8位となる[14]。ドイツグランプリは予選8位、決勝も8位となった[15]。イタリアグランプリは予選17位、決勝4位となった[16]。カナダグランプリは予選14位、決勝はギアボックストラブルでリタイアとなった[17]。アメリカグランプリは予選14位、決勝は燃料切れでリタイアとなった[18]。最終戦メキシコグランプリは予選19位、決勝はエンジンブローでリタイアとなった[19]。カレッジは年末にチームを離れ、1969年はフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズでブラバムを走らせた。チームは1969年シーズン、ペドロ・ロドリゲスを起用したが彼は3戦のみの参戦となった。開幕戦の南アフリカグランプリでは予選15位、決勝は冷却水漏れでリタイアとなった[20]。スペイングランプリでは予選14位、決勝はエンジンブローでリタイアとなった[21]。モナコグランプリでは予選14位、決勝はまたしてもエンジンブローでリタイアとなった[22]。
(key)(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | チーム | エンジン | タイヤ | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | ポイント | 順位 |
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1968年 | オーウェン・レーシング・オーガニゼーション | BRM V12 | G | RSA |
ESP |
MON |
BEL |
NED |
FRA |
GBR |
GER |
ITA |
CAN |
USA |
MEX |
28† | 5位† | |
ペドロ・ロドリゲス | Ret | |||||||||||||||||
リチャード・アトウッド | 2 | Ret | 7 | 7 | Ret | 14 | ||||||||||||
ボビー・アンサー | DNS | |||||||||||||||||
レグ・パーネル・レーシング | ピアス・カレッジ | Ret | Ret | Ret | Ret | 6 | 8 | 8 | 4 | Ret | Ret | Ret | ||||||
1969年 | レグ・パーネル・レーシング | BRM V12 | G | RSA |
ESP |
MON |
NED |
FRA |
GBR |
GER |
ITA |
CAN |
USA |
MEX |
7‡ | 5位‡ | ||
ペドロ・ロドリゲス | Ret | Ret | Ret | |||||||||||||||
‡ ポイントはP138およびP139による。
† ポイントはP133による。
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