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高木 市之助(たかぎ いちのすけ、1888年〈明治21年〉2月5日 - 1974年〈昭和49年〉12月23日)は 、日本の国文学者。九州帝国大学教授、日本大学教授をつとめた。
1888年、愛知県名古屋市で生まれた。1906年、京都府立第一中学校を卒業。1909年、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部へ進学し、国文科で国文学を専攻した。1912年、同校を卒業。
1915年より第五高等学校に教員として勤務。1920年、文部省図書監修官となった。1922年、旧制浦和高等学校教授に就任。1924年に欧州留学を命じられ、イギリスなどヨーロッパ留学を経て、1925年より京城帝国大学教授[1]。1939年、九州帝国大学法文学部教授となった。
戦後の1948年、日本大学の教授となった[2]。1954年、学位論文『古文芸の論』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。[3]。1950年に愛知県立女子専門学校が女子短期大学に改組され、愛知県立女子短期大学となると初代学長に就任[4]。また、同1950年より名古屋大学でも教鞭をとっていた[5]。
学界では日本学術会議会員であり、上代文学会長をつとめた。昭和44年(1969年)正月、歌会始召人を務めた。1974年に死去。
専門は国文学で、上代文学。とりわけ『万葉集』に関する研究が多く、文学論の確立に努めた。『吉野の鮎』ほか多数の著書を残した。
いくつかの学校の校歌の作詞も手がけ、中でも福岡県立筑紫丘高等学校の校歌は記紀万葉・変体漢文を思わせる全文が漢字のユニークなものである。また、国語教育の面では、大正期の国定国語読本『尋常小学国語読本』編集の中心となった。
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