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日本の歌人、小説家、評論家 (1946-2021) ウィキペディアから
須永 朝彦(すなが あさひこ、1946年(昭和21年)2月5日[1] -2021年(令和3年)5月15日 )は、歌人、小説家、評論家。幻想的な作風が特徴。栃木県足利市出身。
少年時代から和歌・短歌・俳句・詩などに親しみ、在原業平、和泉式部、式子内親王、藤原良経、藤原定家、與謝蕪村、与謝野鉄幹、與謝野晶子、北原白秋、木下杢太郎、日夏耿之介、安西冬衛などを愛誦。日本古典は『源氏物語』などの王朝物語や戦記から中世の短篇物語、江戸文芸全般に至るまで広く親しむ一方、能・浄瑠璃や歌舞伎など。近代文学は森鷗外・幸田露伴・泉鏡花・谷崎潤一郎・佐藤春夫・稲垣足穂・三島由紀夫など。外国文学はE.T.A.ホフマン、スタンダール、メリメ、トーマス・マンなどを愛読。17歳の頃、三島の評論・エッセイから澁澤龍彦、森茉莉、ジャン・ジュネ、テネシー・ウィリアムズ、サドなどの文芸を教えられ、眼を灼かれる。
1964年、栃木県立足利高等学校卒業。詩作を試みていたが、1965年に詩人高橋睦郎を訪ねて面談、「詩よりも短歌に向いているのでは」との指摘を受け、現代最高の歌人として塚本邦雄と葛原妙子の存在を教えられる。二人の歌集を需めて熟読する傍ら短歌の制作に没頭、1966年2月、手作りの木版刷歌集を作成し、堀口大學・澁澤龍彦・塚本邦雄など数名に献呈。塚本より返書あり、師事を許される。師の奨めを受け同人誌「喜望峰」に参加、8月初めて短歌36首を公表。師の縁にて葛原・森岡貞香・山中智恵子・中井英夫・松田修・春日井建・寺山修司・加藤郁乎・堂本正樹・高柳重信・永田耕衣・種村季弘・相澤啓三などと相識ることを得る。1970年以降、『話の特集』『ミステリマガジン』『海』『季刊NW-SF|NW-SF』『流行通信』などから散文を発表。また1971年に村上一郎の慫慂を容れて評伝『鉄幹と晶子』を紀伊國屋新書から上梓、作家専業となる。
1971年に古典芸能学者の郡司正勝と出会い、以後27年間、郡司の逝去まで交友を続け、その間『古典芸能 鉛と水銀』『かぶき夢幻』【郡司正勝刪定集(全六巻)】等の編集に従う。1972年に歌集『東方花傳』を上梓、漸次短歌の制作から遠ざかり、1974年刊『就眠儀式』以降、小説やエッセイの刊行を重ねる。1960-70年代の異端、耽美、幻想といったムーブメントの中、佐藤春夫、稲垣足穂などの影響を受けた独特の作品世界を形成したと評される。小説としては『就眠儀式』『天使』が、”耽美小説の聖典”とも呼ばれた。文体に技巧を凝らし、旧仮名遣い、擬古文をしばしば用いている。小説全集解題の東雅夫は「不良星菫派」と呼び、自身は「読者百人の文学」「百人のためのエンターテイメント」を標榜していた。[2] 散文の先達として日影丈吉・澁澤龍彦・多田智満子を三絶として敬い、『幻想文学』誌に追悼文を寄稿している。
1983年、歌舞伎への親炙が機縁となり、坂東玉三郎の日生劇場ギリシア悲劇公演『メディア』の翻訳潤色台本を担当する。1980年代以降は『幻想文学』誌にしばしば寄稿、また幻想文学関連の叢書・選集・アンソロジー等の編集にも携わり、内外古典の翻訳も数多く手がけており、この仕事に関しては相応の評価を得ている。
長年築地明石町に住んだが、晩年は長野県千曲市に移住。2020年12月に脳溢血を患い、2021年5月に死去[3]。75歳没。
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