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中華民国・蔣介石の2番目の妻 (1906-1971) ウィキペディアから
陳潔如(ちん けつじょ、中国語: 陳潔如、1906年 - 1971年1月21日)は蔣介石の2番目の妻[1]。1927年、蔣介石が宋美齢と結婚するにあたり離別した。ロシア語に堪能。
陳潔如の祖籍は寧波にあり、上海で紙商人を営む陳学方と、蘇州出身の母との間に生まれ、生活は裕福だった。12歳の時に蔡元培によって創設された上海の愛国女子中学に入学し、豪商・張静江の娘などと親交を深め、たびたび張家を訪問することもあったという。1919年に孫文と蔣介石が張家を訪問した際に客として滞在していた陳潔如を見初め、強く交際を求めたとされる[1]。陳潔如ははじめ当惑していたが、次第に蔣介石に好感を持つに至った。陳潔如の母は蔣介石が既に一妻一妾をもうけており、かつ正当な職業にもついていないことから蔣介石の求婚に強く反対した。蔣介石は張静江と孫文の関係を通じて陳潔如の母に正妻として娶ることを継続して説得し、最終的に了解を得た。蔣介石は自分と妻妾とは既に別離していると述べ、陳潔如を「唯一無二の合法的な妻」とすると述べた。陳潔如と蔣介石は1921年12月5日、上海の永安大楼で結婚式を行った[2]。張静江が婚礼の立会人となった。結婚後まもなく、陳潔如は蔣介石につき従って、蔣介石の故郷である奉化を訪れ、祖先の祭祀を行い、蔣介石の先妻である毛福梅とも会った。
北伐軍が南昌を攻略したのち、ミハイル・ボロディンや鄧演達らによって主導された武漢国民政府は蔣介石の権力を剥奪しようとする動きを見せた。蔣介石は北伐を継続するために浙江財閥の支持を得る必要に迫られ、浙江財閥に大きな影響力を持つ宋一族から条件として蔣介石と宋美齢との結婚及び宋子文の財政部長への任命を求めた。蔣介石は陳潔如に5年間中国を離れるように頼み、陳潔如はその願いを聞き入れて1927年8月にはアメリカ合衆国へ渡り[2]、北伐の成功後、1933年に上海に戻った[3]。国共内戦で国民党軍が敗れ、台湾に去った後にも上海に残ったが、政府の要請を受け上海市盧湾区の政協委員となった[3][4]。
1961年には周恩来国務院総理に対し上海を離れ、香港に移住できるよう交渉し、認められた[3]。香港では陳璐と改名した[3]。この情報を知った蔣介石と毛福梅の子である蔣経国は直ちに九龍に豪邸を購入して老後の住処として贈り、その後も経済的な援助を行った[3]。翌1962年、蔣介石は戴季陶の子戴安国を秘密裏に陳潔如の下へ向かわせた。持参した信書には「曩昔風雨同舟的日子裡,所受照扶,未曾須臾去懐。(以前共に困難を乗り越えてきた日々ほど、支えられていると感じたことは、(あなたと別れてから)一瞬たりともありませんでした)」と書かれていた[3]。陳潔如からの返信には「三十多年来、我的委屈唯君知之、然而為了保持君等國家榮譽、我一直忍受著最大的自我犧牲……(30年以上にわたる、私の苦しみはご存じのことと思います。ですがあなたや国家の栄誉のため、私はずっと自らを犠牲にしてせいいっぱい耐え忍んでいます……)」とあった[3]。
陳潔如は香港に居住した間に自伝出版のための原稿を完成させたが、出版は国民党によって阻止された。この自伝は蔣介石・蔣経国父子の死後に《陳潔如回憶錄》(日本語訳『蔣介石に棄てられた女―陳潔如回想録』加藤正敏訳、草思社、1996年〈ISBN 4794206992〉)として出版されている。この回想録は「極めて資料的価値の高いもの」と家近亮子に評価されている[5][6]。1971年1月21日、陳潔如は香港で死去した。後事を任された養女[4]の陳瑶光がその財産を受け継いだ。遺骨と遺灰はアメリカ合衆国に送られ、埋葬されている[3]。
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