間切
琉球王国時代の行政区分のひとつ ウィキペディアから
間切(まぎり、沖縄語: マジリ[1])は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。近世には間切は行政区画であるとともにそれ自体が直接納税義務者でもあった[2]。
歴史
中世
沖縄本島を国頭、中頭、島尻に三分する体制は14~15世紀の三山時代に由来する。ただし、三山時代の地勢図は発見されておらず、領域の区分は考古学・歴史学上の考察に基づいている[3]。
第二尚氏第3代の尚真王の時代には、中央集権が強化されるとともに、首里や那覇を除く地方に間切とシマの制度が成立した[4]。この「シマ」は中世以前のグスク時代に成立した共同体を一つまたは複数で束ねて行政単位としたもので、その後、近世には村(ムラ)となった[4]。
近世
琉球侵攻により薩摩藩への貢納のため琉球にも石高制が導入され、検地、名寄の各台帳[注釈 1]や郷村の一覧、『琉球國絵図』(りゅうきゅう くにえず)[注釈 2]などが整備された。これにより古地名の地政的位置が初めて明瞭となったのである[7][要ページ番号]。例えば江戸幕府の命で琉球を含む日本全国で「国絵図」が作成され、『元禄国絵図琉球国沖縄島』(1696年(元禄9年)[5])も現存している[注釈 3]。
近世の間切には、間切を領する按司(あじ)地頭と総地頭(親方地頭)がおり、これらを総称して両総地頭という[4][8]。按司地頭と親方地頭は同一間切に重複して発令された[2]。また、これとは別に村を領する脇地頭も任じられていた[8]。脇地頭の領地と按司地頭と親方地頭の領地は村として重複しており領地併給となっていた[2]。
→「琉球の位階」を参照
近代
1879年(明治12年)の沖縄県設置後も、1898年(明治31年)に公布された間切島規程[9]により首里や那覇を除く地方で自治制度(沖縄県間切島制)として残り[10]、1899年(明治32年)の沖縄県間切島吏員規定[11][12]で番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称された[13]。
しかし、1907年(明治40年)の勅令第46号沖縄県及島嶼町村制が示され[14]、翌1908年に間切は廃止された。これにより従来の間切は村(ソン)に、村(ムラ)は字(アザ)に移行した[4]。
間切一覧
要約
視点

凡例[11]:郡別に色分け。
黒丸=一里塚。街道を挟む形で描かれている。
楕円形の枠=中に村名と石高を記す。
白四角=城下町。地名と城主の名前を記す。
以下に、三山時代からの間切とその後の新設間切(美里、久志、本部、宜野湾、小禄、恩納、大宜味、与那城の各間切)を記す。
国頭方
中頭方
島尻方
両先島地域
奄美群島北部
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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