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1322年から1429年までの琉球の時代区分 ウィキペディアから
三山時代(さんざんじだい)は、古代琉球の時代区分のひとつで、1322年(元亨2年)頃から1429年(正長2年)まで。
沖縄本島を統一する勢力が存在せず拮抗し互いに相争っていた事から「三山鼎立時代」とも呼ぶ。
沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。三山統が鼎立する時代が約100年続いた。いずれも朝鮮と中国に朝貢し交流を深めたが、中山の佐敷按司が勢力を増し、1405年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして、初めて琉球を統一した。
中国の『明実録』、『明史』といった史料にあるように、正式な国名は中山、山南、山北であったが、後に『中山世譜』などで中山の表記に合わせて南山、北山と書かれるようになったことから、山南(南山)、山北(北山)と双方の名称が混在するようになった。どちらを使用しても間違いにはならない。
また、琉球では各島の名を八重山、宮古山、久米山(『球陽』各巻記述他)などと表記する場合があり、三山それぞれの「山」も沖縄本島を指すと考察されている。「○○島」を「○○山」と称するのは、中国の慣習の一つでもあり、この時代に中国側(明朝)から呼ばれた「琉球(琉球国)」も本来は沖縄本島のみを指していた。
三山は1429年に統一されたとするのが通説だが、和田久徳は、早期の『明実録』『歴代宝案』で三山統一が明示されたわけではなく、単に南山の遣使が翌年以後に記載を見ないだけであるとして、三山統一の史実が存在しないとした[1]
石井望は、三山統一説の始見は1456年『寰宇通志』卷百十六琉球國條だとして、その記述では永楽年間に冊封を受けたが、「自後惟だ中山王のみ來朝し、今に至るまで絶えず、その山南山北二王は蓋し中山王の併する所となる云」との推測を記載している。明国では実情が分からず、ただ朝貢が来ないだけだとする。よって石井は、三山時代とは明国側のイスラム宦官貿易時代であり、統一と見えるのは鄭和らのイスラム宦官貿易時代が明国側で終わったに過ぎないとする。明国の宦官はイスラムから貢がれ、税関及び外交の利権を壟断していた。1429年以後も琉球は争乱が相次ぎ、統一にほど遠いが、金丸尚円時代からは薩摩の貿易統制の結果、琉球の統一性が高まり、尚氏は世襲され、後に第二尚氏と呼ばれるに至る、とする[2]。
三山時代と三山統一を否定する史料も複数存在する。1461年、明国「大明一統志」では「近年は中山だけが朝貢に来るから三山は中山に統一されたのだろう」と推測するが、5年後の1466年、福建文人黄沢「通事梁応の琉球に帰るを送る」序によれば、久米村の梁応という唐通事が福州で「琉球は三山だ」と述べ、三山統一が無かったかのようである(黄澤「旂山翁文集」)。 1523年に琉球の禅僧鶴翁が平安京に上った際は、三山を聞いたこともないと述べた(鶴翁字銘)。 1683年、冊封使汪楫が渡琉し、久米村の唐通事を通じて三山の王について問うと、知る者は絶無であった(汪楫「使琉球雜録」卷二)[3]。
3王国それぞれの領地は、1896年の郡制施行により国頭郡・中頭郡・島尻郡の3郡となった(本土と違い沖縄ではそれまで郡はなかった)。郡の範囲は現在ではかなり変わったが、地域区分国頭・中頭・島尻として残っている。
また、北部・中部・南部の3つの広域市町村圏も、若干の違いはあるがこれらとほぼ一致している。
16世紀、ポルトガルの地図中に出現するレイスマゴス(Reyes Magos, Reys Mages)は東方魔術王(東方の三博士)の語義であるが、石井望の新説では琉球三山に該当するという [4]。
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