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門神(もんしん)は、中国の仏教寺院、道教道観や住宅などの建物の入口に立ち、門番の役目をする神。検閲を司り悪鬼から門を守るとの伝えから春節に中国各地の門戸に貼られる。
中国においては寺院、道観にとどまらず、民家の門にも絵画で普及している。邸宅では彩色で直接正門の扉に描かれるが、簡易なものでは木版画として売られ、これを旧暦の新年に際して扉に張る風習がある。
観音開きの木戸が多いため、左右の扉の外に面した側に一対の門神が貼られる、または描かれるのが普通。中国においては、民間伝説としてよく知られている秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)が対で描かれるか、一枚扉の場合は、魏徴または鍾馗が描かれることが多い。
門神の歴史は古く、前身は「桃符」(または「桃板」)という、桃材の木板で製作される符であり、それ以前は桃梗(または桃人)という人形であった。古来、桃の木には霊力があり、悪鬼は非常に畏れると考えられ、辟邪の御利益があるとされた[1]。桃は五木の精であり、邪気を伏し、鬼門に生じてよく百鬼を制するという[3][4]。桃符の原型は、古代の悪鬼払いの巫術で用いられた桃の木で作られた棍棒・帚・弓などに遡る、との説もある[要出典]。
門に桃梗(桃人)を立てかけ、神荼・鬱塁の神と虎を門に描き、葦縄を門に懸ける(大晦日に[5]の)風習[1]について起源伝説があり、中国の東の海からそびえる度朔山[注 1]に大桃木("その屈蟠すること三千里の"蟠桃[9])があり、樹上に神荼・鬱塁(しんと・うつるい/うつりつ)の二神が居り、鬼門を監視し、悪鬼を葦の縄(葦索)で捉えて虎に食わせたという(後漢の王充『論衡』訂鬼篇。引用元は戦国時代の『山海経』になっているが疑問視される。すくなくとも後漢時代までには執り行われた風習である。)[注 2][12][11]。後漢の蔡邕の『獨斷(独断)』にも似た文章があるが、そこに大晦日に神荼・鬱塁[注 3]を門戸に描いて凶を防いだと記される[8][5]。
六朝期には、桃板が出現する。唐宋時代には桃人は姿を消し、専ら桃板が用いられるようになった。
漢代には、魔除けとして飾ることが始まった。桃板には文字や模様を刻む場合もあり、これが対聯や年画の原型となった。
南北朝時代以降、紙が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼と鬱塁を描いて貼ることが流行した。梁(南朝)の宗懍の『荊楚歳時記』には、元日に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。唐代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた。
現在、桃符はほとんど原型を留めておらず、門神は扉に直接描かれ、または紙に印刷され、春詞は紅色の紙に黒字、ないし金字で書かれ、いわゆる紙製の春聯と化した。ただし、文語で春聯を桃符ということがある。[13]
時代、地域、建物、職業によって門神とされる人物は異なり、種類は多いが、主なものとして次がある。
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