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中国神話の神 ウィキペディアから
神荼(しんじょ / しんと)・鬱塁(うつりつ)は、中国神話の神。行いの悪い鬼(死者の霊)を葦縄で縛り、虎に食わせると伝わる。その絵や名前を門戸に飾る風習があり、門神の最古例とされる。門神は他の神に取って代わられもしたが、神荼・鬱塁を飾る風習が今でも地域に残っている。
神荼と鬱塁(簡体字: 郁垒; 繁体字: 鬱壘)のように、後者は現代日本語と中国語で漢字表記が異なる。
神荼の元来の読みは「しんじょ」であり、「荼」は同音の「除」に通じると上原淳道は説いている[1]。また、鬱塁は「うつりつ」と読み[注 1]、「塁」は脚韻する「祓」に通じるとし、神荼と鬱塁の中核には「除・祓」の概念があるとする[3]。
なお、中国語においても異読があり、神荼の読みは Shentu (拼音表記)が標準とされたり[4]、 Shenshu と表記されたりする[5]。
神荼と鬱塁の言及で最も古いとされるのは『山海経』から引かれたとする王充(97年没)『論衡』の記述であるが、現存の『山海経』には欠ける内容であり[6]、文体や内容考証からその逸文とは考えにくいとされる[8][注 2]。
その『論衡』訂鬼篇の記述によれば神荼・鬱塁(うつりつ)はの二神は、海からそびえる巨大な桃の木の上にたつが、その木の枝は屈蟠すること3000里[注 3]。大木の北東に鬼門があり、二神は行いの悪い鬼(死者の霊)を葦索(アシでゆった縄)で縛り、虎に喰わせるという。それにちなみ黄帝が、魔除けの慣習を民間にはやらせたとされる。桃の材木で出来た人形(大桃人)を立て、神荼・鬱塁、虎の絵を門戸に描き、葦索を掛けるというものである[11]。
同作品の別篇(亂龍篇)にも記載されているが[12] 、多少文言が異なり、黄帝が制定した慣習ではなく、県官(漢王朝の婉曲表現とされる)が、大桃人や門戸の絵付けで厄祓いをおこなっているとする[5]。
蔡邕(192年没)の『獨斷(独断)』[13]よく似た記載がみられる[14]。応劭『風俗通義』(195年頃)では『黄帝書』(黄帝四経)を引いているとするが、内容はほぼ同じである[15][16]。これらには、魔除けの飾りが付けられるのが大晦日[17]、厳密言えば臘の儀式前の夜とされている[16][18](臘は年末の祭典[19]、臘八節の前身)。桃材の人形は桃梗とも呼ばれるが、、木を削った彫像であったことにも触れられている[20][注 4][20][18]。
上記は、中国の民間信仰である門神の起源伝説にあたる[9]。後の時代、他の神格が門神として取って代わりもしたが[21]、地域によっては近年でも神荼・鬱塁が新年の門神として飾られる[4][9]。
桃人形(「桃梗」等)の飾りはのちに簡略化されて「桃符」という桃の板が使われるようになり、神荼・鬱塁の像が描かれたり、その神名が書かれたたりした[22]。
言い伝えによれば、8世紀、唐の太宗が秦瓊(しん けい、秦叔宝)と尉遲恭(うっち きょう、尉遅敬徳)ら将軍を、悪霊から自分を守るための身辺警護役に任命し、そのことから両者を門神として仰ぐ慣習が起こったとされている[4][23]。さらに9世紀頃には鍾馗を門神とする風潮が起きた[23]。
10世紀頃、桃符に聯語を書き添えるようになった[21]。桃符とは、13世紀頃の説明によれば、幅4-5寸、長さ2-3尺の薄板で、神像や狻猊・白澤の絵を描き、左に鬱塁、右に神荼の名を書き添えるか、春の詞や祝祷の語を述べる。桃符は、年次新しく交換する[25]。
桃符(板)は、やがて紙製のものに置き換わったが、これが春聯の起源とされる[22][26]。
清の学者の兪正燮は、門神は本来は二神でなく一つの神だとするが(『癸巳存稿』巻十三)、それは『続漢書』礼儀志の引用文の誤読によるものだと指摘される[27]。もっとも、兪正燮は、1神か2神かを糺そうとするのは無益と考えており、神荼・鬱塁いずれとも桃椎(モモのつち)に由来するというのが本題であった、とも解説されている[28]。
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