長者町繊維街
名古屋市中区にある商店街 ウィキペディアから
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長者町繊維街(ちょうじゃまちせんいがい)は、愛知県名古屋市中区錦二丁目にある繊維問屋街である。江戸時代から商人の町として繁栄し、戦後問屋街として発展したが[新聞 1]国内繊維産業の衰退やバブル崩壊後の不況に伴い問屋の廃業が相次ぎ[1]空洞化や少子高齢化が問題となっている[新聞 2]。しかし2010年に開催された第1回あいちトリエンナーレの会場となったことで[新聞 3]アートのまちとして注目されているほか、名古屋駅と栄の中間に位置する利便性の高さからマンション建設が相次いでいる[新聞 4]。
繊維街の道路上にある標識には「長者町繊維街」と書かれているが、長者町繊維問屋街[WEB 1]、長者町織物問屋街、長者町問屋街と呼ばれる場合もある。
「長者町通」は白川通と外堀通の間を南北に結ぶ通りで、住居表示では栄二丁目、錦二丁目、丸の内二丁目に相当する(地図中直線)。長者町繊維街の標識はこのうち広小路通から杉ノ町通の間にあり、住居表示では錦二丁目、丸の内二丁目に相当する[WEB 2]。一方錦二丁目まちづくり連絡協議会による「錦二丁目長者町まちづくり構想」(2011-2030)においては対象地域を広小路通、桜通、伏見通、本町通に囲まれたブロックとしている(地図中灰色範囲)[2]。中日新聞(2014)では長者町地区を「錦通、桜通、本町通、伏見通に囲まれた16街区のエリア」としている[新聞 2]。これは錦二丁目の区域に等しい[WEB 3]。
長者町はもともとは名古屋城下町から美濃路を西北に7.2キロメートル進んだところにある、南北に流れる五条川の両岸に展開した清州(現・清須市)に所在した。14世紀から15世紀にかけて尾張守護職・斯波氏の城下町として、清州の町は人口7万人に及ぶ発展を遂げた[3]。長者町は、清須城下の南の繁華街に、本町の西側に並んだ場所に形成された町であったが、たびたび水害に遭っていたため、1610年(慶長15年)の名古屋城築城開始に前後し、数年をかけて町そのものが名古屋へと移転した[3][4]。これが世に「清須越し」といわれる集団移住である[4][3]。「思いよらざる名古屋ができて、花の清須は野となろう」と、当時の臼挽の労働歌に唄われた[5]。清須に居を構えていた時代から、裕福な商家や町人が多く、物資の流通や経済の中心として栄えた町であったという[6]。
名古屋の城下町は城の南方に整備された[5]。北端はお堀端の片端筋、南端は広小路、東端は久屋町、西端は御園町までの、本町通を中心として左右対称のほぼ真四角な範囲を碁盤の目に区画整理して、清須から移住した人々の大多数がここに居住した[5][7]。
このうち「長者町通り」は、片端筋から広小路まで南北に貫く約1,000メートルの街路をさし、清須から移住当初は「上長者町」・「下長者町」と呼ばれた[8]。1684年(貞享元年)の頃、上長者町四丁目を小桜町と改称した。この町名の由来は、長者町筋の中ほどに桜ノ町筋を東に進んだところへ桜の大木が群生する天満宮と桜山霊岳院があったことによる[9][8]。城下町に時を知らせる「時の鐘」はこの境内にあった[8]。一方、下長者町は、野菜を商う者が多く居住した本重町筋から南は八百屋町と改称した[9][8]。その結果、以後、明治時代の初年まで北から「上長者町」「小桜町」「下長者町」「八百屋町」の4ヶ町が並んだ[8][9]。
城下の中心通りは本町通りで、長者町筋はその裏側の町として比較的落ち着いた町としてはじまった[10]。藩政時代には中級武士の屋敷と、家柄を誇る裕福な町家が軒を連ねた[6]。片端筋に近い上長者町の一角は江戸時代末まで武家屋敷が並んだ[10]。一方、下長者町の南方は1660年(万治3年)正月に左義長の火が元で生じた「万治の大火」で焼失し[11]、以後は次第に商人の町へと姿を変えた[10][12]。この時代の記録に残る住人には、1605年(慶長10年)に清須から上長者町に移住した水谷与右衛門(人足問屋)や和泉屋権右衛門(酒造商)、下長者町に移住した又左衛門(紺屋)、作兵衛(鎗師)、弥三左衛門(砥石商)、清次郎(象眼師)らの名前がある[10]。文化年間(1804年-)には和泉屋権右衛門、万屋彦十郎、千竹屋伝左衛門、井桁屋吉兵衛、米屋治兵衛などが名を残し、1868年(慶応4年)に町奉行所御用達格次座の資格で暖簾を飾った商家には、千竹屋富太郎、大野屋しゃう、藤倉屋権七、吉島屋藤三郎、和久屋安兵衛、万屋久八、江戸屋重右衛門らが名を連ねた[10][13]。
当時、町の格式は旧家と老舗の数により、町奉行はこれらを目安に町役銀と呼ばれる賦課金を徴収した[14]。享保年間(1716年-)の賦課金は、上長者町は銀1貫56匁、小桜町は969匁、下長者町は819匁、八百屋町1貫10匁であった。なお、城下のメインストリートにあたる本町は1貫603匁で、城下で最も高額の賦課金を負ったのは伝馬町の5貫897匁であった[14]。一方、町奉行から支給される町代給は上長者町が金1両3分、小桜町1両、下長者町3分、八百屋町2両1分、伝馬町は7両であった[14]。
江戸時代には、1660年(万治3年)の大火以降も、1692年(元禄5年)、1763年(宝暦13年)、1774年(安永3年)、1781年(天明元年)、1794年(寛政6年)、1805年(文化2年)、1811年(文化8年)、1825年(文政8年)、1841年(天保12年)、1850年(嘉永3年)、1851年(嘉永4年)とたびたびの火災に見舞われたが、その都度復興を遂げた[11]。
文化・文政年間(1804年-)から天保年間の頃、上長者町界隈を拠点とする芸者が現れ、長者町は繁華街として最初の黄金期を迎える[15]。1873年(明治6年)に長者町盛栄連が結成されると、河文、御納屋、近直、魚半、大又、近又、河内屋などの料理屋がひしめき、長者町筋だけでも5カ所の人力車の詰め所が生まれた[15]。1914年(大正3年)には置き屋が34軒あり、80人の芸者が客を迎えた[15]。
長者町繊維街が繊維問屋街として飛躍的な発展を遂げたのは、大正末期から昭和にかけてである[16]。店の主が先頭に立ち、問屋でありながら「現金取引」と「薄利多売」による商法を展開で顧客をつかみ、やがて長者町は日本有数の問屋街へと発展を遂げた[16]。1936年(昭和11年)の記録によれば長者町繊維街には48軒の商家が軒を連ねた[17]。
1945年(昭和30年)3月19日、名古屋大空襲により長者町繊維街を含む名古屋城下町一帯は焼失する[11]。戦後、焦土を片付けて再び集った商家は多くは仮店舗で「現金問屋」の看板を掲げた[18]。本町通りが進駐軍によって日本人のあらゆる車や馬が通行禁止とされたのに対し、往来自由であった長者町繊維街に客の流れが集中した[18][19]。1947年には横井栄一郎の中栄産業が商工省の「絹人絹統制業務代行指定」をうけ、繊維の取り扱いを始めた[19]。1950年(昭和25年)、38社が任意組合として「長者町織物同盟会」を結成[18]。さらにその発展として、1951年(昭和26年)に75社が加盟し中小企業等協同組合法を適用した「長者町織物協同組合」へ移行した[18]。第二次世界大戦以前には料亭や芸妓置屋が軒を連ねた長者町繊維街は、糸へん景気などを受けて[新聞 2]日本有数の繊維製品問屋街へと姿を変えた[20]。
長者町の近くに名古屋市営地下鉄東山線伏見町駅が開業することが決まり、1956年に伏見町駅と繊維街を結ぶ地下街の建設のために長者町地下街繊維問屋協同組合が結成され、1957年11月16日に伏見地下街が開業した[雑誌 1]。
一方1951年(昭和26年)5月に、各社の商報を新聞形式にまとめた「長者町新聞」の発行を開始[18]。繊維業界の動きや標準相場、店舗案内、長者町だよりなどを盛り込み、昭和40年代には全国有数の業界紙へと成長した。あわせてどんぐり教室や給食センターの開設、犬山市に長者町団地を造成し、1968年(昭和39年)には青年長者町会(青長会)を発足させるなど、従業員の福利厚生の充実を図った[18]。
1966年、復興土地区画整理事業により住居表示が行われ、上長者町、下長者町の町名が消滅した[21]。これに反対する繊維問屋有志が名古屋市に請願書を提出し[22]、1968年に名古屋地方裁判所に町名変更取り消しを求める訴訟を起こした[雑誌 2]。しかし1973年に最高裁判所が上告を不適法とし、町名変更取り消しは認められなかった[WEB 4]。
1968年(昭和43年)、長者町は道路を拡張し、東西両側の歩道を1メートルずつ削って4車線となる[23]。1974年(昭和49年)4月7日にはそこを歩行者天国として、「長者町タウンフェスティバル」を開催した[23]。この頃には、約100社の問屋のなかで、現金問屋は1割程度となっていた[24]。
商家の数は戦前と比べて飛躍的に増え、昭和40年代には名古屋市内に40超の問屋街があるなかで、繊維卸問屋街といえば長者町と呼ばれるようになった[17]。1970年前後には100軒近くの問屋があった[新聞 2]。
1990年代以降バブル崩壊や安価な中国製品の台頭[新聞 3]により問屋の廃業が進み[新聞 4]、市街地空洞化が問題となってきた[新聞 2]。最盛期に100社以上あった名古屋長者町協同組合の加盟社は2020年時点で約20社となっている[新聞 4]。繊維関係の建物が入るビルの数は1989年には230棟だったのが2004年には129棟になっていた。また人口減少も激しく、1992年に770人だった錦二丁目の人口は2003年には400人となっていた[WEB 3]。
2000年(平成12年)、長者町織物協同組合創立50年に、商店街のシャッターにデザイン専門学校生がペイントをほどこした[新聞 3]。これは青長会(長者町織物協同組合青年部)の発案で、高齢化の進行や不況により空き店舗や駐車場が増えている街の活性化を狙ったものである[新聞 1]。長者町50年祭には2日間で6万人が訪れた[WEB 5]。2001年からは織物組合の主催でゑびす祭りを開催[新聞 5]。2002年には空きビルを「えびすビル」として再生、のちにえびすビルPart2(2003年)、Part3(2005年)ができ[WEB 6]、カフェや雑貨店などが入居している[新聞 3]。
2010年(平成22年)、「あいちトリエンナーレ2010」は「都市の祝祭」をテーマとし、長者町繊維街をメーン会場のひとつに選んだ。芸術監督建畠哲は「生きた街に非日常の風景を挿入し、高揚感やわくわくする感覚を生み出したい」と意図を語った[新聞 6]。 巨大壁画や光のアートなど12点の企画が選ばれ、2010年(平成22年)8月21日~9月12日、9月15日~10月3日、10月6日~31日の3会期に分けて展示された[新聞 7]。 そのうちのまことクラヴ「長者町繊維街の日常」では、長者町衣料卸会社「丹羽幸」荷さばき場がパフォーマンスの舞台として活用された[新聞 8]。 また、開催に先立ちプレイベントとして「長者町プロジェクト」が2009年(平成21年)10月10日~11月15日に実施された[新聞 9]。長者町プロジェクトで製作された作品はそのまま残された[新聞 3]。 KOSUGE1-16《長者町山車プロジェクト かたい山車》では、戦時中に消失した山車に代わる現代版山車を作成。以後、長者町ゑびす祭りを飾る名物となった[25]。
そのほか、2010年(平成22年)1月22日から3月26日まで、理解を深め楽しむための「トリエンナーレスクール」が毎週金曜日計10回、長者町繊維会館で開催された[新聞 10]。
「あいちトリエンナーレ2010」長者町エリア会場、アーティスト、コンペ作品は下のとおり[26]。
以降、2013年、2016年にも長者町があいちトリエンナーレの会場として選定されている。
「あいちトリエンナーレ2013」長者町エリア会場、アーティスト、コンペ作品は下のとおり[27]。
アートの他に都市の木質化にも取り組んでおり、錦二丁目まちづくり連絡協議会に「木質化プロジェクト部会」を設置し、ウッドデッキの設置などを行なっている[新聞 2]。
2004年、錦二丁目まちづくり連絡協議会(現・錦二丁目まちづくり協議会)が立ち上げられる[WEB 7]。またNPO法人まちの縁側育くみ隊がまちづくりに関与するようになる[28]。
2008年5月にはゑびすビルPart3の2階に「錦二丁目まちの会所」が設置される[29]。
2015年、名古屋駅・伏見・栄地区が都市再生緊急整備地域に指定される[WEB 8]。
その後栄・名古屋駅への近さから単身者向けマンションの建設が相次いで進められていたが、一方で長者町協同組合からの退会者が相次いでいた。2017年に錦二丁目7番街区市街地再開発が認可され、さらなる人口の増加が予想されたが、今後のまちづくりの担い手不足が懸念されたことから[WEB 6]、2018年には地域の住民や業界団体などの出資で「錦二丁目エリアマネジメント株式会社」が設立された[新聞 11]。2020年には官民連携による「都市の実験場」としてN2/LABが立ち上げられた。
通りには「長者町繊維街」の文字を記したアーチ看板が、桜通 - 広小路通間に大型5基、杉ノ町通を挟んだ南北に小型2基設置されていたが2023年(令和5年)に撤去が決定した[30]。しかし、長者町繊維街のシンボルとして存続を求める声や寄付の申し出があり、一部のアーチ看板は保存されることになった[30]。
1964年(昭和39年)7月、下長者町一丁目に所在した東洋綿花所有地を買収の上、長者町相互ビルを新築した[31]。また同時に相互ビル株式会社が17社の出資により設立された[31]。1965年(昭和40年)4月には相互ビル出資社により、長者町相互繊維協同組合が設立されている[32]。
長者町には昭和30年代に不燃化事業により建築されたビルが多く所在しており、平成には入居者がいない空きビルと化していた[雑誌 3]。これらの空きビルのオーナーと入居希望者の間に地元組合らによる有限会社が介在し、ビルを一括で貸したいオーナー側の需要と小規模な入居希望者の間の溝を埋め、地区の空きビル問題の解決を図った取り組みである[雑誌 3]。
遠山産業の本社ビルで、1935年(昭和10年)にRC造2階建てとして建てられた[33]。空襲にも耐え、戦後の復興事業により曳家も実施されている[33]。2007年(平成19年)取り壊し[33]。
「トリエンナーレはなにをめざすのか 都市型芸術祭の意義と展望 (文化とまちづくり叢書)」(2015)によると、長者町において活動するグループは以下のとおりである(p.200)。
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