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那須ロイヤルセンター(なすロイヤルセンター)は、かつて栃木県那須郡那須町高久乙にあった、福島交通グループ(小針グループ)が経営していた屋内型遊園地を含む温泉レジャー施設。1968年/1969年開業、2000年閉業。
那須ロイヤルセンター | |
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情報 | |
旧名称 | 那須レジャーセンター、那須ロイヤルホテル |
用途 | 屋内型総合レジャー施設 |
設計者 | 株式会社藤田組 |
構造設計者 | 株式会社藤田組 |
施工 | 美福株式会社 |
建築主 | 株式会社藤田組 |
事業主体 | 福島交通 |
管理運営 | 福島交通 |
構造形式 | 鉄筋コンクリート造、鉄骨造、PC杭基礎構造(本館構造) |
敷地面積 | 430,000 m² |
建築面積 |
7,602.65 m² ※主にレジャーランド部分 |
着工 | 1967年(昭和42年)5月1日 |
開館開所 | 1967年(昭和42年)12月1日 |
所在地 | 栃木県那須郡那須町高久乙3375番地・3376番地 |
備考 | 電設工業昭和45年4月号記載データ、月刊ホテル旅館昭和50年5月号記載データによる |
那須湯元温泉の西方約2キロメートルの位置、「新那須」と呼ばれていた当時山林の未開地に、およそ1966年から当時の福島交通関連会社「美福」社長の小針暦二が筆頭となって総合レジャーランド用地取得を開始し、1968年(昭和43年)12月に本館である「那須ロイヤルホテル」が完成し那須高原に開場した施設で、レジャーランド及びホテル別館と第二別館は1969年(昭和44年)4月に開業。東京ドーム10個分の広大な敷地の中に遊園地の他に、ホテル、大劇場、テニスコート、美術館、ゴーカートコースまで揃えた夢の一大レジャーランドであった。1975年(昭和50年)、盛況を誇った当時の施設は「プロムナード館」、「ファンタラマ館」、「レストランシアター」、「ショールーム」、「ホテル本館・別館」、「ボーリング場」、「ファンタラマ温室」、「ホステル館」(後にホテル第二別館と改称)、「ゴーカート」、「大庭園」(つつじ園)、「屋外プール」、「人工池」、「社員宿舎」[1]で、センター全体の総工費は60億円(1969年当時)、当時の従業員数は800名、年商25億円だったが、経営母体の破産から2000年(平成12年)で営業を終え、跡地は一部がコナミ研修センター(北緯37度4分47.44秒 東経139度58分0.51秒)となった他は別荘地として分譲されている。
本館、別館、第二別館を合わせて合計約2500名収容可能。本館は2,900平米地上5階地下1階建て[2]、鉄筋鉄骨造、海抜800メートルの位置に建設。ホテル本館には七色の照明を備えた「大浴場」、「サウナ」、「スナック」、「コーヒーショップ ローレル」(24席、13時間営業)、「レストラン メイプル」(メインダイニング、114席)、「グリルテラス スカーレット」(80席、噴水つき室内グリル料理専門店)、けやき造りの国際会議場施設「けやき」、大休憩所「菊の間」(1500名収容・宴会可能)、「大広間」(名称:ゴールデン、1000名収容可能・宴会可能)、「民芸大舞台」(民謡・演芸専用の常設舞台)、「中・小会議場」(松・竹)、「成人向け娯楽映画館」、「ショッピングコーナー」(常設30店舗のお土産品・物販コーナー)、貴賓室1室、スイートルーム3室(4階、名称:バイオレット、3部屋続き、室料5万円)、洋室77室、和室19室、和洋室10室などを備え収容人員は300名の高級タイプのリゾートホテル。エントランス・ロビーからエレベータホールの壁面と柱はイタリア産のピンク色の大理石で施工されていた。
14階建て2100平米[2]、鉄筋造高層ビルタイプ、全館バス・トイレ付き客室で100室(内「特別室」4室)で500名収容。1泊2食つき3000円、540畳の舞台装置付き大宴会場併設、舞台装置付き中・小宴会場併設、バー(最上階14階のカクテルラウンジ、50席、10時間営業、可動式ペンダントライト設備常備)、サウナ、和食堂、キャフェテリア大食堂(176席、8時間営業)が併設された中クラスのリゾートホテル。
地上4階1950平米[2]、鉄筋造全97室、400名収容可能。レストラン、バー、大浴場併設のファミリー向けエコノミーホテル。
レジャーランド中心部に位置した大型劇場で、開館当初は1500人収容(椅子席1100、桟敷席400)、後に600人収容の『レストランシアター』に改修された。電気設備は関東電気工事株式会社が担当。SCR照明設備常設、オーケストラボックス常設、8チャンネル同時ワイヤレスマイクPA設備(マルチミックスミキサー卓併設)を常設、廻り舞台設備常設。特に照明設備は演目内容の幅広さ(ミュージカル、歌舞伎、バレー、演劇、オペラ、日本舞踊)を考慮した専用設計で設置。本舞台フットライト設備、銀橋フットライト設備、ロアーホリゾントライト設備、サイドスポット設備、センターピンアークスポットライト設備、ビームランプ設備の各設備を備えていた。
1971年(昭和46年)開設。専属の『那須ロイヤルダンシングチーム』によるグランド・レビューショーが行われていた。開設当時の芸能担当は福中国明、企画担当は亀井喜代俊(宝塚劇団出身)、日舞・振付・演出担当は藤間勘寿郎(日舞出身)、洋舞担当は山田卓、ロイヤルオーケストラ担当は和田光正、専属ダンサーは30名。後に、企画担当が福中国昭、構成・振付が大谷盛雄、振付が奥山賀津子、音楽担当が中川 昌、装置担当が吉村捨男、衣装担当が静間潮太郎、声楽指導が山下美音子、照明担当が川本周二、演奏はRMCロイヤルオーケストラ、指揮者は望月 敏の各スタッフが担当した。同ダンシングチームは平日2回、日・祭日は3回公演、年間4回の演目構成で、専門の「ロイヤルミュージカルスクール」にて、日舞・洋舞を中心に1年間の研修を行う。1987年(昭和62年)度の広告[7]によると、翌1988年(昭和63年)度の第18期舞踏研究生として15歳以上の女子(経験不問)を若干名募集し、大阪で2月、東京で3月にオーディションを行っていた。受験料は無料。最終公演の「ブラボーロイヤル」第83回公演をもって1997年(平成9年)解散。『那須ロイヤルダンシングチーム』に関しては、1993年度に採用された踊り子(ダンサー)の春乃まり・著の書籍『レヴューの踊り子さん』(新風舎/1999年8月刊)[8]が当時の様子を詳細に書き残している。
注意:現在は存在しません
以下は1995年4月時点の「那須ロイヤルセンター」の営業状況と施設に関するものである。
※遊戯施設の運営委託先はナムコ、小貫商事、丸山工芸、水野企画。
※出典:[12]
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