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一般的に、辛嶋氏は渡来系氏族であるとされている[1]。辛嶋氏の系図では素戔嗚尊の子・五十猛神の末裔となっており、やはり渡来系であることが推察できる[1]。
辛嶋氏は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、宇佐神宮に仕える女禰宜を輩出した。
元来は薦神社(現在の中津市)で神官・巫女として務めていたとされ、後に八幡神の託宣を受けたことで、大神比義とともに宇佐神宮の前身となる社を建立した。
『日本書紀』巻第27天智天皇10年11月(671年)10日条によれば、韓嶋勝裟婆ら4人が、唐よりやって来て、唐・新羅が日本を攻めようと準備をしていることを伝えている[2]。
養老4年(720年)の隼人の反乱の後に豊前国の住民が大隅国へと移住させられているが、大隅国には五十猛命を祀る韓国宇豆峰神社があることから、辛嶋氏との関係があるとする説がある[1]。
神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では、称徳天皇の勅使として和気清麻呂が宇佐神宮に参宮し宣命の文を読もうとした時に、八幡神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を訊くことを2度拒んでいる[1]。
唐が百済を滅ぼした後、百済旧域を占領するために設置した熊津都督府内に、百済で活動していた日羅などのような倭人が存在したことを暗示する記録がある[4]。熊津都督府は、665年8月に唐勅使劉仁願の立会で熊津都督の扶余隆と新羅文武王の間で領土保全などを約束した羅済会盟を実現させたが、その模様を詳述する『冊府元亀』[5]『資治通鑑』[6]『旧唐書』[7]には、羅済会盟直後に倭人が登場する[4]。同史料によると、羅済会盟後に百済鎮将劉仁軌が新羅、百済、耽羅、倭国の四カ国の使を率いて泰山の封禅の儀に赴いているが、儀礼の様子以外にも準備段階からそれら四カ国を含む諸蕃酋長が扈従を率いて行列に従駕したことを記している。熊津都督府のもと倭人を同行させるなど当時の熊津都督府内に倭人がいたことは確かであり、池内宏は、これらは熊津都督府に抑留または残留した倭人とみた[4]。倭人は白村江以後も旧百済地域に滞在していたが、磐井や日羅が時に百済王権の立場から行動したように、倭人が熊津都督府に従事し、664年からの白村江の戦後処理の対倭交渉は、熊津都督府の倭人の既存ネットワークによって行われた部分も多かった[4]。671年に熊津都督府は、道久、筑紫薩夜麻、韓嶋勝裟婆、布師磐の4人を、唐人郭務悰一行の先発隊として対馬に送っているが[8]、『日本書紀』によると、筑紫薩夜麻は白村江の戦いで捕虜となり、熊津都督府にいた[9]。また道久、韓嶋勝裟婆、布師磐も同様の立場とみられる[4]。熊津都督府は倭人たちを自身の傘下に組み込み、熊津都督府の意向のもと、こうした倭人たちを外交活動に活発に活用した[4]。筑紫薩夜麻の先代は筑紫君磐井につながる豪族とみられる[4]。韓嶋勝裟婆は、「韓嶋」という氏からみて豊前国宇佐郡辛島郷の豪族と推定される。熊津都督府が唐人郭務悰一行の先発隊として対馬に派遣した4人のうちの2人もが、歴史的に朝鮮半島西南(百済地域)とパイプをもつ北九州と関係のある豪族であり、白村江以後の熊津都督府においても倭人の旧来のネットワークを継承・活用したことを示している[4]。
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