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赤松 貞範(あかまつ さだのり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美作国守護[1]。子孫は、春日部流(春日部流赤松氏[2])と称された[3][4]。
徳治元年(1306年)[注 1]、赤松則村(円心)の次男[5]として誕生[6]。
嘉暦元年(1326年)頃、兄・範資と共に摂津国長洲荘(長洲御厨)の荘官沙汰人を務めたと推定され、同年9月に提出された起請文には、貞範は惣追捕使、範資は執行として記されている[7][8][注 2]。
父・円心が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った。元弘3年(1333年)1月、鎌倉方の備前国三石城城主・伊東宣祐が舟坂峠に侵攻すると、貞範がこれを迎え撃ち、破った[10]。
『太平記』によると、その後、円心ら一族と共に摂津国に進出し、摩耶山に拠った[11]。同年閏2月11日、鎌倉方により摩耶山を攻められるが、これを撃退した[11]。ただし、『兵庫県史』はこの日付に疑義を呈しており、赤松勢は、閏2月23日に尼崎を攻撃、翌24日に坂部(酒部)(現・尼崎市)の合戦で敗退して摩耶山に籠もったと推測している[12]。
建武2年(1335年)、中先代の乱を平定するため関東に向かう足利尊氏軍に加わった[5]。戦後、尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は300騎で脇屋義助7000騎に突撃を敢行した。これを見て義貞方の大友貞載が寝返ったため戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。同3年(1336年)9月、丹波国春日部荘の地頭職を与えられた[3]。
南北朝時代には北朝方に与し、赤旗一揆を組織して活動し、室町幕府の確立に尽力した。
貞和5年(1349年)春、姫山城(のちの姫路城)を築いた[13]。同年8月、尊氏の命により、父・円心は、足利直義方である長門探題・足利直冬の東上に備え、美作国との国境を守ったとされる[13]。
貞和6年(1350年)1月13日、父・円心が逝去[14]。翌・正平6年/観応2年(1351年)4月8日、兄・範資が急逝した[14]。範資の子・赤松光範が摂津国守護職を安堵されたが、赤松家の家督と播磨国守護職は、弟・則祐に与えられた[14]。貞範が選ばれなかった理由は幕府から疎まれていたためとされる[注 3]。
正平11年/延文元年(1356年)から美作国守護を務めていた徴証がある[3]。同4年(1359年)からは筑前入道世貞と称した[3]。康安元年(1361年)7月12日、山名時氏が美作国に侵入し、倉懸城(旧・岡山県作東町)を攻めると、救援に赴いたが敗退した[16]。
貞治3年(1364年)、美作国守護を、幕府に帰順した山名義理と交替されられた[3]。
後世の系図では、応安7年(1374年)に69歳で死去したとあるが、永和2年(1376年)に活動の徴証がある[3]。法号は
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