西尾慈高

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西尾慈高

西尾 慈高(にしお しげたか、1934年2月27日 - 2017年5月5日[1])は、京都府京都市出身のプロ野球選手投手)。左投左打。名の読みをよしたかと誤記した文献が多いが、正しくはしげたかである。

概要 基本情報, 国籍 ...
西尾 慈高
Thumb
1955年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地 京都府京都市
生年月日 (1934-02-27) 1934年2月27日
没年月日 (2017-05-05) 2017年5月5日(83歳没)
身長
体重
179 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1954年
初出場 1954年
最終出場 1965年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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経歴

立命館神山高校から立命館大学経済学部に進学。関西六大学野球リーグでエースとして活躍し、1954年春季リーグ優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で秋山登土井淳らのいた明大に敗れ準優勝にとどまる。同年9月に大学を中退して阪神に入団した。大学同期に吉田義男がいるが、吉田も1年で中退している。

1954年、1955年には先発として何度か登板機会を与えられたものの勝利を挙げることができなかった。1956年に中日戦でプロ初勝利となる完封勝利を記録し、この年は防御率2.80で3勝とまずまずの成績を残した。内角を入念にシュートできめ、ドロップ、フォークで勝負を決める投球術が持ち味。

1957年は開幕投手に指名されたが、1勝2敗で防御率4.62と不調であった。翌1958年は11勝10敗防御率2.71と、ようやく主力投手並みの成績を残し、エースの小山正明に次ぐ先発投手として位置づけられた。しかし、1959年以降は、のちにエースとなる村山実が入団したこともあって登板機会が減り、1959年は8勝9敗、1960年は4勝4敗に終わった。

1960年のオフ、星山晋徳とともに、伊奈努横地由松との交換トレードで中日に移籍した。

1961年、中日の若手選手だった中利夫に懇願され、自身のグラブを譲り渡した。こののち、中は外野守備の名手として知られるようになり、引退までこのグラブを使い続けた。一方、西尾は1961年こそ6勝を挙げ、準エース格だった板東英二河村保彦を差し置く形でオールスター戦にも監督推薦されたが、その後は目立った活躍ができず、1965年に引退した。

2017年5月5日午後10時40分、腎不全のため死去[1][2]。享年83。

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1954 阪神 2000000--------112.1200--0100213.000.86
1955 13600002----.00012928.22722411242014123.721.78
1956 291911033----.50036689.27343013473033282.801.15
1957 15310112----.33316738.14541000190024204.621.43
1958 40256311110----.524766189.01591746231005065572.711.08
1959 372142289----.471574140.012273913672062533.411.15
1960 321521144----.50036290.06962921501027232.301.09
1961 中日 391122165----.545418104.19462841540040363.091.17
1962 22300031----.75015639.0343801180013133.001.08
1963 25200022----.50020351.04431822191019173.001.22
1964 17200010----1.00010825.022113007001082.881.40
1965 25100002----.0007920.0201402900431.351.20
通算:12年 29610816963940----.4943339817.17115424913174151403132712.991.17
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背番号

  • 1 (1954年 - 1957年)
  • 28 (1958年 - 1960年)
  • 17 (1961年 - 1965年)

脚注

関連項目

外部リンク

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