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平安時代中期から後期の公卿。藤原有国の七男。従三位・式部大輔。子に良覚(四男)、在原惟経の妻 ウィキペディアから
藤原 資業(ふじわら の すけなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家真夏流(日野家)、参議・藤原有国の七男。官位は従三位・式部大輔。
一条朝の長保5年(1003年)16歳で文章得業生となり、翌寛弘2年(1005年)対策に及第。
寛弘3年(1006年)式部少丞に任ぜられると、式部大丞・六位蔵人を経て、寛弘6年(1009年)従五位下・筑後権守に叙任される。刑部少輔・大内記を経て、寛弘8年(1011年)2月に右少弁に任ぜられ、同年6月に三条天皇が即位して藤原道長の外孫である敦成親王が春宮に立てられるとその東宮学士を兼任する。さらに、長和3年(1014年)五位蔵人を、長和4年(1015年)には検非違使佐を兼ねて三事兼帯となった。この間の長和3年(1014年)右中弁・藤原定頼が春日社行幸行事を務めることになったが、闘乱によって定頼に変わって資業に改替した[2]。
長和5年(1016年)三条天皇が敦成親王(後一条天皇)に譲位し、左大臣・藤原道長が三条院の院司を定めた際、資業は判官代に任ぜられる一方[3]、引き続き五位蔵人も務めた。寛仁元年(1017年)正五位下・文章博士となる。左少弁を経て、寛仁4年(1020年)従四位上・丹波守に叙任され弁官を去る。治安2年(1022年)正四位下、治安3年(1023年)式部大輔に叙任され、文人官僚の筆頭となった。丹波守在任中の治安3年(1023年)子刻に騎兵十余りが来て中御門にある資業の邸に放火した[4]。その際、家人が相挑んだというが、群盗の力に敵わず燃やされてしまったという。
式部大輔の傍らで、万寿5年(1028年)播磨守、長暦3年(1039年)伊予守と地方官を務めたのち、後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)従三位に叙せられとなり公卿に列す。
永承6年(1051年)に出家。法名素舜。日野山庄に隠居し、延久2年(1070年)8月24日薨去[1]。享年83。日野法界寺薬師堂を建立した。
『公卿補任』による。
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