藤原惟方
平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流葉室家。藤原顕頼の次男。従三位・参議。妻に藤原知通の娘(子に藤原為頼、藤原惟基(-1182))。子に藤原惟綱(惟経)、藤原惟頼、寛宝、全快、 ウィキペディアから
平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流葉室家。藤原顕頼の次男。従三位・参議。妻に藤原知通の娘(子に藤原為頼、藤原惟基(-1182))。子に藤原惟綱(惟経)、藤原惟頼、寛宝、全快、 ウィキペディアから
藤原 惟方(ふじわら の これかた)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流葉室家、権中納言・藤原顕頼の次男。粟田口別当とも。官位は従三位・参議。
永治元年(1141年)皇后宮権大進として美福門院に仕え、同年に美福門院の分国である越前国の国司(越前守)に任ぜられたのを皮切りに、丹波守・遠江守と国司を歴任する。
久寿2年(1155年)美福門院の養子で、惟方の乳兄弟にあたる守仁親王(のち二条天皇)の立太子に伴って春宮大進に任ぜられると、その後は順調に昇進し、翌保元元年(1156年)には後白河天皇の五位蔵人に任ぜられ、左衛門権佐・権右中弁を兼ね、三事兼帯の栄誉に浴する。さらに、保元3年(1158年)には蔵人頭、次いで二条天皇の即位に伴い参議に任ぜられる。二条天皇即位後は大炊御門経宗らと共に天皇親政派を組織し、後白河上皇院政派の中心人物である信西と対立、その一方で院政派ながら同様に信西と反目していた甥(姉妹の子)の藤原信頼と接近する。
これらの経緯により、平治元年(1159年)の平治の乱においては、当初は藤原信頼や源義朝らと共に内裏を占拠、信西を殺害して気勢を上げる。だが、信頼の器量に不信感を抱く兄・光頼の戒めもあって、程なくして信頼からの離反を決意。経宗や妻の兄弟・藤原尹明らと共謀し、信頼によって内裏に監禁されていた二条天皇を女装させた上で平清盛の六波羅邸まで付き添って脱出させ、戦局の行方を決定的なものにした。
平治の乱における功績や、院政派の実力者信西の死去により、乱後天皇親政派は一時的に権勢を得るが、かねてより対立関係にあった後白河上皇によって次第に政治生命を狙われることとなる。惟方は大炊御門経宗と共に、天皇親政を実現するための方策として、永暦元年(1160年)には、上皇が好んで市井の様子を眺めていた、御在所である藤原顕長邸の桟敷を強引に封鎖した[1]ことから、上皇は激怒[2]し、上皇の命を受けた平清盛に遣わされた郎党忠景[3]・源為長によって2月20日[4]に経宗と共に逮捕される。上皇は二人を面前に引き据えて拷問した上、惟方を長門国、経宗を阿波国にそれぞれ流罪とした。惟方は3月11日配流される日に出家し、法名を寂信と称している。
6年後の仁安元年(1166年)3月29日に赦免、召還されたが、二度と中央政界に返り咲くことはなかった。晩年は和歌の道に安らぎを見出し、穏やかに過ごしたとされている。歌集に『粟田口別当入道集』がある。
平治の乱後に配流となった人々が、次第に都に召還されていく中で、惟方はいつ赦されるかわからないまま過ごしていたが、配所から都に対して女房へことづけて「この瀬にも沈むと聞けば涙川 流れしよりもぬるる袖かな 」という歌を詠んだ。この歌を聞いた後白河法皇は哀れんで、惟方を赦免し都に召還したという[5]。
『公卿補任』による。
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