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平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流葉室家。従二位・権中納言。 ウィキペディアから
藤原 顕長(ふじわら の あきなが)は、平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流葉室家、権中納言・藤原顕隆の三男。官位は従二位・権中納言。八条中納言と号す。
天永3年(1122年)、5歳にして従五位下に叙爵。以後、紀伊国、越中国、三河国、遠江国といった国司を歴任する。保元3年(1158年)に参議、長寛2年(1164年)に権中納言。
平治元年(1159年)の平治の乱の直後、三条殿の焼失に伴い、後白河上皇が一時顕長邸に仮の御所を営んでいた。この際に上皇が好んで市井の様子を眺めていた顕長邸の桟敷を、上皇に対抗意識を持つ二条天皇親政派の藤原経宗・藤原惟方(顕長の甥)が強引に封鎖したことが上皇の激怒を買い、両名の失脚・配流に繋がったことは、つとに知られている。
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