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日本の歴史学者 ウィキペディアから
(あら まつお、1921年(大正10年)5月7日 - 2008年(平成20年)11月8日)は、日本の歴史学者(インド史・南アジア史)、小説家。位階は従四位。勲等は瑞宝重光章。学位は博士(史学)(専修大学・2001年)。筆名は「新谷 識」(しんたに しき)。東京大学名誉教授、恵泉女学園大学名誉教授、日本学士院会員。
東京大学東洋文化研究所教授、東京大学東洋文化研究所所長、津田塾大学学芸学部教授、恵泉女学園大学人文学部教授、財団法人東洋文庫研究員などを歴任した。
1921年、東京府東京市浅草区浅草材木町(現在の東京都台東区雷門二丁目)の裕福な商家、材木問屋[1]に生まれた。5人きょうだいの末っ子であった[2]。子ども時代には『少年倶楽部』に掲載されていた 山中峯太郎著「亜細亜の曙[3]」のSF的探偵綺談に惹かれ、『新青年』でも探偵小説の面白さに触れ、大学時代に再燃し、古今東西の古典や文学を乱読する傍ら、江戸川乱歩・黒岩涙香を耽読、「推理小説志向の根は、大学生の時に固まったらしい」と記している[4]。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)、第一高等学校文科丙類(フランス語)を経て、1941年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入学した[5]。太平洋戦争の時局悪化の中で、卒業前の1943年12月に学徒兵として出征。京城府(現 ソウル)、華北の石門(現 石家荘)、済州島で、2年間の軍隊生活をおくった[6]。
復員後、出征中の1944年9月に大学を卒業していたことを知った[7]。1946年4月東京帝国大学大学院入学[8]。
1947年、東京大学東洋文化研究所助手に採用された。1952年6月から1956年3月までインドへ出張[8][9][10]、帰国後、東京大学東洋文化研究所講師に昇格し、東京大学文学部講師を併任した。1958年に同助教授、1967年に同教授に昇格した。1972年から1973年まで、同所所長を務めた[11][12]。
この間、1959年~1960年、1961年~1962年の2回にわたって、東京大学インド史跡調査団の副団長として現地調査を実施[13]。
1980年3月から6月、オーストラリア国立大学ヴィジティング・フェロー(客員研究員)を務めた。1982年に東京大学を定年退官し[11]、名誉教授となった[14]。その後は、同1982年から津田塾大学教授となり、1995年に退任。その後も恵泉女学園大学教授を務め、退任後に恵泉女学園大学名誉教授となった。学界では、1995年12月に学士院会員に選出[14][15]。東洋文庫研究員でもあった。2001年、学位論文『インド-イスラム遺蹟研究』を専修大学に提出して史学博士の学位取得[16]。また、カナダ・ヴィクトリア大学より美術史学名誉博士を授与された[17]。
学界以外では日印協会理事をつとめ[18]としてインド文化講演会の講師もつとめる[19]、両国の理解と親善にも務めた。
2008年11月8日死去[19]。死去と共に正八位から従四位に昇叙され、瑞宝重光章が贈られた[20]。
「新谷 識」という筆名を用いて推理作家としても活躍[21]。1975年に『死は誰のもの』[22]で第14回オール讀物推理小説新人賞を受賞し[21]、推理作家としても活動した。筆名「新谷識」は、阿頼耶識(あらやしき)に基づく[23][24]。
専門はインド史、および、南アジア史。インド中世の政治権力と宗教勢力との関係について研究するなど、日本におけるインド史の本格的な研究の開拓者として知られている[14]。
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