美穂村

日本の鳥取県気高郡にあった村 ウィキペディアから

美穂村(みほそん)は鳥取県気高郡にあった。旧高草郡

概要 みほそん 美穂村, 廃止日 ...
みほそん
美穂村
廃止日 1953年7月1日
廃止理由 編入合併
神戸村大和村美穂村大正村東郷村明治村豊実村松保村大郷村吉岡村千代水村湖山村末恒村倉田村面影村鳥取市
現在の自治体 鳥取市
廃止時点のデータ
日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
気高郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 5.77 km2
総人口 2,555
国勢調査、1950年)
隣接自治体 鳥取市、大和村、東郷村
岩美郡倉田村
美穂村役場
所在地 鳥取県気高郡美穂村大字朝月27番地
Thumb
旧・美穂村役場庁舎位置
座標 北緯35度27分45秒 東経134度12分11秒
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概要

現在の鳥取市上味野・下味野・朝月・竹生・向国安・源太にあたり、千代川下流左岸に位置する。1933年10月1日に編入された岩美郡美保村とは異なり、同村消滅までは隣接していた。

村名は米の産地を象徴して「瑞穂」としようとしたが、気多郡瑞穂村(高草郡と気多郡は同じ郡役所が管轄)が先に使用していたことから「みずほ」の「ず」を取って「美穂」と命名した[1]

現在は鳥取県道42号鳥取河原線が通っている。美穂郵便局などに名前が残っている。

歴史

藩政時代には鳥取藩領の高草郡味野郷(あじののごう)に属する上味野村・下味野村(枝郷に朝月村)・竹生村、および邑美郡三戸古保(みとこのほ)に属する国安村があった[2]

国安村は千代川の大洪水で流路が変わり、西対岸に枝郷の向国安村および飛び地の源太の3つに分かれていた。池田長吉が邑美郡を支配した慶長年間に、洪水後にできた中洲の領分をめぐって高草郡を支配していた亀井茲矩と争い、幕府の裁定で国安村の領分となったとされる[1]

その後、向国安村と源太村は正式に分村して高草郡に編入、これに味野郷の4ヶ村を足した計6ヶ村が合併して美穂村の範囲となった。

沿革

  • 天保5年(1834年) - 国安村から枝郷の向国安村を国安村新田として分村[1]
  • 明治元年(1868年) - 国安村から飛び地の源太を1村として分村[1]
  • 明治2年(1869年) - 下味野村から枝郷の朝月村を分村(藩史)、ただし幕末には実質的に独立していたと見られる[1]
  • 明治5年(1873年) - 向国安村・源太村の所属郡が邑美郡から高草郡に変更。
  • 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、下味野村・朝月村・上味野村・竹生村・向国安村・源太村が合併して高草郡美穂村が発足。旧村名を継承した6大字を編成。
  • 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、高草郡・気多郡の区域をもって気高郡が発足し、気高郡美穂村となる。
  • 1915年(大正4年)1月1日 - 「美穂村大字○○村」から大字の「村」を削除し、「美穂村大字○○」と改称[3]
  • 1953年昭和28年)7月1日 - 鳥取市に編入。同日美穂村廃止[4]日進小学校で合併式典が挙行される[5]

行政

役場

  • 1883年(明治16年) - 連合戸長役場を竹生村の金谷義周宅に設置[1]
  • 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行により竹生村外15ヶ村連合は美穂村・大和村砂見村岩坪村に分かれて発足。美穂村役場は大字朝月村に設置される[6]
  • 1891年(明治24年) - 役場位置を大字上味野村に変更[7]
  • 1900年(明治33年) - 役場位置を変更(大字上味野村)[1]
  • 1911年(明治44年) - 役場位置を大字上味野字フケ419番地、美穂尋常高等小学校裁縫室(現在の日昭電機製作所)に変更[1][8]
  • 1934年(昭和9年)8月12日 - 役場位置を大字上味野字ガブガブ375番地、美穂尋常高等小学校東隣(現在の上味野集会所西隣)に変更[1][9][10]
  • 1944年(昭和19年)6月1日 - 役場位置を大字朝月27番地、美穂農協事務所隣接地(後のJA鳥取いなば美穂支店)に変更[11]。戦時体制の一環として行政と農業団体との連携を強めるためのもの[1]
  • 1953年(昭和28年)5月4日 - 農協の施設より出火、役場庁舎及び農協事務所が類焼。小学校理科室を仮庁舎として業務を続けた[1]
  • 1953年(昭和28年)7月1日 - 鳥取市編入により鳥取市役所美穂支所が発足。旧美穂農協敷地内農業倉庫東隣り角地に二階建事務所新築[1]

戸長

  • 猪子村・横枕村・玉津村・向国安村・竹生村戸長(1879年頃):金谷義周
  • 竹生村外15ヶ村連合戸長役場(1883年-1889年):金谷義周 - 五百蔵勇[12]
    管轄区域:竹生村・下味野村・朝月村・上味野村・向国安村・源太村(後の美穂村)、横枕村・玉津村・倭文村・長谷村・赤子田村・猪子村(後の大和村)、下砂見村・中砂見村・上砂見村(後の砂見村)、岩坪村[13]

歴代村長

さらに見る 代, 氏名 ...
氏名就任年月日退任年月日出身備考
金谷義周1889年(明治22年)11月7日1893年(明治26年)11月5日竹生元竹生村戸長
竹生村外15ヶ村連合戸長
古海村外11ヶ村連合戸長
2金谷義周1893年(明治26年)11月16日1895年(明治28年)3月17日竹生
3近藤寛次郎1895年(明治28年)4月20日1899年(明治32年)4月19日下味野
4近藤寛次郎1899年(明治32年)5月11日1899年(明治32年)9月11日下味野
5近藤文吉1899年(明治32年)9月21日1903年(明治36年)2月19日竹生
6有田喜太郎1903年(明治36年)4月9日1907年(明治40年)4月8日上味野
7原田千代蔵1907年(明治40年)4月15日1911年(明治44年)4月14日向国安
8原田千代蔵1911年(明治44年)4月28日1913年(大正2年)12月13日向国安
9原田千代蔵1914年(大正3年)1月22日1918年(大正7年)1月21日向国安
10本城源雄1918年(大正7年)1月22日1922年(大正11年)1月21日上味野
11本城源雄1922年(大正11年)2月4日1924年(大正13年)7月5日上味野
12林仲治1924年(大正13年)9月6日1925年(大正14年)9月22日向国安
13三田喜代蔵1925年(大正14年)12月26日1929年(昭和4年)12月25日上味野
14三田喜代蔵1929年(昭和4年)12月28日1933年(昭和8年)12月27日上味野
15林仲治1933年(昭和8年)12月28日1937年(昭和12年)12月27日向国安
16林尚夫1938年(昭和13年)1月4日1942年(昭和17年)1月3日向国安
17筧樠治郎1942年(昭和17年)1月4日1945年(昭和20年)6月10日下味野
18有田嘉孝1945年(昭和20年)6月18日1947年(昭和22年)2月28日上味野
19三田吉之1947年(昭和22年)4月8日1951年(昭和26年)4月7日上味野初代公選村長
20三田吉之1951年(昭和26年)4月24日1953年(昭和28年)6月30日上味野
参考文献 - [1]
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教育

  • 美穂村立美穂小学校:合併後に鳥取市立美穂小学校、その後統合により鳥取市立美和小学校、更に統合により現在は鳥取市立江山学園となる。
  • 大和村美穂村組合立美和中学校:所在地は大和村倭文。合併後に鳥取市立美和中学校、その後統合により鳥取市立江山中学校、更に統合により現在は鳥取市立江山学園となる。
  • 鳥取農業高等学校美和分校:1948年(昭和23年)4月に大和村倭文の千代青年学校校舎を引き継いで県立実業高等学校美和分校を設置。1953年(昭和28年)4月に鳥取農業高等学校美和分校となる。1958年(昭和33年)4月、源太に分校舎設置。統合により鳥取県立鳥取湖陵高等学校美和分校となり2006年閉校[1]

交通

千代川右岸には鳥取城大手門から上方往来(智頭往来)が通っていたのに対し、左岸に位置する当村は閑散としており藩政時代は水運が主流であった。その上方往来と対照的な道路が1895年(明治28年)に賀露~岩坪間に開通し、当村の交通の便は発達した[1]

  • 源太橋:徳川幕府の軍略的政策により主要な街道の河川には一切架橋しないのが原則とされ、当村も千代川対岸とは「源太の渡し」という渡しで結んでいた。それに代わる橋として1889年に小橋を架橋したものの洪水の度に押し流され、その残骸が下流の千代橋や八千代橋にひっかかり問題を起こしていた。1934年に長い木橋で架橋されたがわずか10数日後に室戸台風で流失。戦後の1951年、建設省により延長341m、幅員5.5mの鉄筋コンクリート製永久橋が架橋されるまで昔ながらの渡しが続けられていた[1]

出身者

脚注

関連項目

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