今宮神社 (京都市)
京都市北区の神社 ウィキペディアから
京都市北区の神社 ウィキペディアから
今宮神社(いまみやじんじゃ)は、京都市北区紫野今宮町にある神社。社格は旧府社。別名「玉の輿(たまのこし)神社」とも呼ばれる。京都市北区・上京区において大きな氏子区域を持ち、祭礼の規模が比較的大きな神社として知られている[1]。
現在の今宮神社がある土地には、延暦13年(794年)の平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社(現・摂社疫神社)があったとされる[2]。平安遷都後にはしばしば疫病や災厄が起こり、神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれた[2]。正暦5年(994年)にも都で大規模な疫病が流行ったため、朝廷は神輿2基を造って当地で祀られていた疫神を乗せ、船岡山に安置し、音楽奉納などを行った後、疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流した[2][3]。民衆主導で行われたこの「紫野御霊会」が今宮祭の起源とされ、京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まった[4]。
長保3年(1001年)にも疫病が流行したことから、朝廷は疫神を船岡山から移し、疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けた[2][3]。大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱の神が創祀された[2]。疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ、やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着して毎年5月に行われることとなった[2]。
創祀以来、今宮社に対する朝廷・民衆・武家からの崇敬は厚く[2]、弘安7年(1284年)には正一位の神階が与えられた。室町時代に応仁の乱が勃発すると巻き込まれてしまい[2]、焼失した[5]が、明応5年(1496年)に室町幕府将軍足利義澄によって社殿が再興されている。また、将軍足利義晴によって大永5年(1525年)に神輿が造替され、天文13年(1544年)には社殿が修復されている。
文禄2年(1593年)に豊臣秀吉は今宮社の御旅所を再興し、神輿1基を寄進している[2]。
西陣の八百屋に生まれた「お玉」が江戸幕府第3代将軍徳川家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となった。このことが「玉の輿」ということわざの由来になったとの説がある。桂昌院は京都の寺社の復興に力を注いだが、今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったといい[2]、元禄7年(1694年)には社殿の造営を行った他、御牛車や鉾を寄進し、祭事の整備や氏子区域の拡充、やすらい祭の復興など様々な施策を行った[2]。江戸時代には社領として100石が認められている。
寛政7年(1795年)には、機業者を中心とした西陣界隈の豊富な経済力を背景に御旅所に能舞台を落成し、秋季に能の公演を行っていた。しかし、織物産業の衰退により、1970年代を最後に途絶えることとなった[6]。
明治初年に郷社、1881年(明治14年)6月に府社に列せられている。1896年(明治29年)に社殿を焼失したが、1902年(明治35年)に再建を果たした。
享保2年(1717年)頃にまとめられた『京都御役所向大概覚書』によると、今宮神社の氏子区域は東が堀川通(ただし小川学区の西側半分を含む)、西は七本松通、南は二条城、北は不明確だがおおむね玄以通である[4]。東側は上御霊神社の氏子区域と、西側南部は北野天満宮の氏子区域と、南側は八坂神社の氏子区域と接しており、西側北部は紙屋川が境界となっていた[4]。現在の行政区でいうと北区の南東部と上京区の西部にあたり、その中心にあるのが西陣地区である。
以下の32件の建造物が2018年(平成30年)3月27日付けで国の登録有形文化財に登録されている[11]。
※上記建造物のうち、「御旅所」は京都市上京区大宮通北大路下る若宮横町に所在。
京都市営バス46号系統「今宮神社前」下車すぐ。1・12・M1・204・205・206・北8号系統「船岡山」下車徒歩7分。
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