Remove ads
ウィキペディアから
福澤 幸雄(ふくざわ さちお、1943年(昭和18年)6月18日 - 1969年(昭和44年)2月12日)は、日本の元レーシングドライバー、元実業家。フランスのパリ生まれのレーサー兼ファッションモデルかつ紳士服メーカー「EDWARD'S(エドワーズ)」の元取締役企画部長。新字体で福沢幸雄とも表記される。身長170cm。福沢諭吉の曽孫。マックスファクター、東レ、松下電器産業(後のパナソニック ホールディングス)等のイメージ・キャラクターも務めた。日本人の父親と、ギリシャ人の母親を持つハーフ。
当時在フランス(ヴィシー政権)日本国大使館に勤務していた父親の福澤進太郎(当時慶應義塾大学法学部助教授)と、フランスへ歌の勉強に来ていたギリシャ人ソプラノ歌手の福澤アクリヴィとの間に、パリで生まれた。慶應義塾の創設者福澤諭吉の曾孫で、妹はアーティストの福澤エミ。第二次世界大戦の終戦後の1946年に3歳で家族とともに帰国。東京の一等地白金長者丸に住まう[1]など、非常に裕福な家庭で育った。1950年(昭和25年)9月Japan Evangelicas Christian Schoolに入学、1953年(昭和28年)4月港区立白金小学校第四学年編入、1956年(昭和31年)3月同小学校卒業、同年4月慶應義塾中等部入学、1959年(昭和34年)4月慶應義塾高等学校を経て、1962年(昭和37年)4月慶應義塾大学法学部政治学科へ進学した。その後1964年(昭和39年)5月からフランスへ留学(Tiwilition Rancaise)、同年12月帰国[2]。英語・フランス語・ギリシャ語を身に付け、日本語を併せると4言語を自在に操った[3]。
1969年(昭和44年)2月10日、袋井テストコースがコース開きとなった。このコースは同年10月の日本グランプリに向けて、新型の5リッタートヨタ・7の開発拠点となる予定だった。
当日、福沢は5リッタートヨタ・7用に試作したロングテールのクローズドボディを、旧型の3リッタートヨタ・7のシャシに装着して先行開発テストを行っていた[13](5リッタートヨタ・7は当初クローズドボディで設計されたが、試走の結果からオープンに改装された[14])。ストレートから1コーナーに向かう途中、福沢のマシンは突然コースアウトしてコース脇の芝生に建てられた標識の鉄柱に激突、さらに土手に激突して炎上した。福澤の同僚(トヨタワークスのキャプテン)だった細谷四方洋は事故後に腕に火傷を負いながら助け出そうとしたが、シートベルトが外れず救助できなかった。結局、救助できたのは消火作業後だったが、福沢はすでに死亡していた。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷で、標識に激突した時点で即死だったとみられる[15]。
目撃証言ではストレートで突然車の挙動が不安定になり、コース右側の標識に激突したという。横風の影響を受けたという見方もあるが、遺族は車両側の原因(空力、強度、マシントラブル)による事故の可能性を強く疑った。さらに父・進太郎の証言では、福沢は事故の前日非常にナーバスになっており、「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたという。
細谷は後に「トヨタ7はル・マン24時間レースやカンナムレースも視野に入れていた。ル・マン用マシンは時速300kmを超えるのを目標に僕(細谷)がテストしていた。悪口のように聞こえたら本意ではないが、僕がマシンをテストし『もう少し煮詰めが必要』と述べたら、福沢君が『そのくらい乗れないでプロと言えますか』と言った。福澤君はセンスがあり速かったが、少し自信過剰になっていたかも知れない」と述べている[16]。
当時のトヨタは、特にライバルの日産自動車との間でレーシングカーの開発競争にしのぎを削っていた時期であり、警察の現場検証に対してさえも「企業秘密保持」を理由に事故車両を早々と撤収した。さらに(故意ではないが)証拠資料として事故車両とは全く違うタイプのレーシングカーの写真を提供し、事故原因については「車両側ではなくドライバー側に非がある」と主張した。
このことは新聞や雑誌といったマスコミのみならず、果ては国会でも取り上げられ、社会問題にもなった。このようなトヨタの対応に怒りを覚えた父・進太郎は、福沢の名誉回復のためにトヨタ関係者を業務上過失致死傷、証拠隠滅で告訴。静岡地方検察庁浜松支部は「3人を起訴するだけの証拠がない」としたが、浜松検察審査会が不起訴不当判決。再捜査が行われて再度不起訴となるなど長期化した[17](「福沢裁判」と呼ばれる)。
その後10年以上法廷で争った末、1981年(昭和56年)にトヨタが遺族側に6,100万円を支払う形で和解が成立したが、事故原因の真相については未だに不明である[18][19]。
※ 一時恋人だった松田和子(1936年生、通称ピーター)は、日本人(東洋人)初のパリコレモデルとして知られる[34]。東京・田園調布生まれで、姉もモデル[35]。身長160cmと小柄ながら、ルイ・フェロー(fr:Louis Feraud)の来日ショーに出演し、1959年に渡仏、ルイ・フェローのショーでパリコレデビューし、1960年よりイヴ・サンローラン時代のディオールと専属契約を結び、コレクションモデルとして活躍後、1970年代に引退し、その後結婚した[34][35]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.