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茨城県常陸太田市の町名 ウィキペディアから
常陸太田市南部に位置する。町の北の境界を源氏川が、東の境界を里川が流れ、磯部町で合流する[2]。南の境界は渋江川が流れる。農山村的特徴と都市的特徴の両方を兼ね備えているが、常陸太田中心部に近接するため、都市的特徴が顕著である[3]。国道349号に沿って集落が形成され、街村形態を呈する[4]。
北は稲木町・山下町・三才町、東は小沢町・内田町、南及び西は谷河原町と接する。
磯部町では、縄文時代の峰遺跡や峯山・磯部古墳群が見つかっている[5]。
文献記録では、鎌倉時代の『弘安田文』に「磯部十六丁三段大」と書かれ、常陸国佐都西郡(さとさいぐん)に属していた[6]。佐都西郡は平安時代末期には佐竹氏の本貫であり、鎌倉時代末期に臨川寺に寄進された「佐都荘」の荘域内だったと考えられている[7]。ほかにも明応3年(1494年)頃の筆と思われる『当乱相違地注文写』に「いそへくるま方」[5]、「礒辺乃内とうさい寺方 同違乱」[6]などとあり、佐竹の乱の折に小野崎氏や江戸氏に押領されていた[5]。文禄3年(1594年)の太閤検地により佐都西郡が久慈郡に組み入れられた[7]ため、磯部も久慈郡となった[5]。
江戸時代には常陸国久慈郡大里組に属しており、磯部村(礒部村)と称した。慶長14年(1609年)を境に、佐竹氏から水戸藩へ支配者が変わった[5]。村高は寛永12年(1635年)の『水戸領郷高帳』に1,031石余、『元禄郷帳』に956石余などとある[5]。『国用秘録』には、肥沃な土地であると記され、天保13年(1842年)の検地の記録によれば、田畑は101町余で分米は34石余、新田畑は4反余で分米は1石余だったという[6]。
明治時代になると、町村制の施行により近隣3村と合併し、久慈郡佐竹村の大字となった。村役場は磯部に置かれた[8]。佐竹村は昭和の大合併において、太田町ほか5村と合併して常陸太田市となり、磯部町という町名となった。市制施行後は、住宅地化が進み[4]、1960年(昭和35年)4月6日に市立峰山中学校が現在地に移転した[9]。
『水府志料』によると、往古は「五十騎」(いそめ)、「箕山」と称した[5]。
1764年(明和元年)[6] | 105戸 509人 |
1805年(文化 2年)[6] | 58戸 ?人 |
1891年(明治24年)[7] | 135戸 697人 |
1980年(昭和55年)[4] | 326世帯 1,189人 |
2011年(平成23年)[10] | 343世帯 902人 |
2017年(平成29年)[1] | 369世帯 918人 |
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