石神井公園
東京都の公園 ウィキペディアから
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東京都立石神井公園(とうきょうとりつ・しゃくじいこうえん)は、東京都練馬区にある都立公園、風致公園である。三宝寺(さんぽうじ)池と石神井池を中心に、雑木林、高い木立がそびえる広場、史跡、運動場などからなる。なお、三宝寺池の北側に位置する「石神井松の風文化公園」などは区立公園(都市計画上は石神井公園)。
東京都立石神井公園 Shakujii Park | |
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分類 | 都立公園 (風致公園)・天然記念物 |
所在地 |
日本 |
座標 | 北緯35度44分20秒 東経139度35分51秒 |
面積 | 22.6 ha |
前身 | 一部「石神井公園記念庭園」の前身「喜楽園」、前々身「第二豊田園」(1916年,大正5年頃開園)。石神井池の前身は三宝寺川と田と水路と釣り堀。 |
開園 | 1959年3月11日 |
運営者 |
東京都公園協会 2011 - 2015年度指定管理者 |
現況 | 年中開園 |
設備・遊具 | 史跡、神社、野球場、小野球場、テニスコート、野外ステージ、ボート場、公園遊具、売店(2つ) |
駐車場 | 70台 |
アクセス |
西武池袋線石神井公園駅徒歩7分 西武新宿線上井草駅より長久保行きバス「三宝寺池」下車、石神井公園駅行きバス「石神井公園」下車 |
告示 | 1959年3月11日 |
事務所 | 石神井公園管理所 |
事務所所在地 | 練馬区石神井台一丁目26-1 |
公式サイト | 公式サイト |
石神井公園には、三宝寺池、石神井池の2つがあり、そのうち三宝寺池は、井の頭池、善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる。園内は、天然記念物の三宝寺池沼沢(しょうたく)植物群落がある三宝寺池と、通称ボート池の石神井池に大別される。
その他の園内の施設には、有料ボート、野球場(合計3つ)、テニスコート、野外ステージ、広場、売店などがあり、区立の施設だが石神井公園ふるさと文化館、池淵史跡公園、石神井松の風文化公園も隣接している。
エリア
三宝寺池
石神井池
三宝寺池には、国の天然記念物である三宝寺池沼沢植物群落がある(1935年指定)。同池は古来より、武蔵野台地からの地下水が湧き出る池としてこの地にあった。それを1959年(昭和34)に人々が散策できる公園として整備した。但し年々水量が減少しており、景観維持のために人工的に地下から揚水している[注 1]。因みに池の名称は隣接する三宝寺に由来(この節で後述)。
中ノ島を中心に、カキツバタをはじめ、シャクジイタヌキモ[注 2]やジュンサイなどが生い茂っていた。しかし、1950年代後半から都市化が進んだことや、ヨシなどの植物を周辺の人が利用しなくなったため、植生が大きく変わった。その後、貴重な水生植物を保護するために、保護活動が行なわれている。
池淵には、厳島神社(小社)、宇賀神社穴弁天、水神社(小社)などがあり、厳島神社には昭和天皇が皇太子だった頃に植えた「御手植之松(おてうえのまつ)」がある。因みに三宝寺池の古称は弁天池といったが、同池にある厳島神社がかつて三宝寺配下の弁天社だったことに由来する[注 3]。1996年に「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が環境庁選定の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。
また、1993年8月、三宝池で巨大ワニの目撃証言が相次いだため、マスコミが連日報道し、罠をしかけるなどの大騒動になったが、結局発見されなかった[4]。
当地には元々武蔵野を支配した豊島氏後期の居城、石神井城があり、同氏が室町時代に滅んだ時に消失したが、今は三宝寺池の南に石神井城址碑が立っている。三宝寺池はかつて石神井川の主水源とされ、流域の豪族であった豊島氏もこの水の支配の為、池の南の台地に築城したとされている[要出典]。
同碑の上は丘陵になっていて、階段で登ると左手に本郭跡、空堀(からぼり)や土塁の遺跡が保存されており、高い木立がそびえる広場(無名)に出る。園外になるがそこは氷川神社と鳥居をくぐれば繋がっていて、池の南側は全体が雑木林になっている。同神社は元々石神井城の鎮守として創建された(後述)。同じく園外だが池の名称の由来になった三宝寺も細道を挟んで隣接している(後述)[要出典]。
大正期に日本初の100mプールとして整備され[注 4]、その後に西武鉄道が「石神井釣り道場」(1955 - 87年)として運営していた部分は、1989年(平成元年)に水辺観察園として整備されている。因みに100mプールは府立第四公衆遊泳場としてできたもので、当時開通したばかりの武蔵野鉄道が駅からプールまで無料バスを運行していた。1932年ロス五輪の金メダリスト、鶴田義行や清川正二ら選手団もこの石神井プールで合宿し「石神井遊泳団」と称号された。大正期にはまた、料亭の豊島館、旅館の武蔵野館、茶亭の見晴亭も池の畔(南東のやや高台)にできていて、そこは文士や芸術家らが集まった[5][6]。
三宝寺池バス停の近くには「ひょうたん池」がある。三宝寺池の南東端の排水溝の水路を通った水は、途中ひょうたん池に引き込まれた後、井草通り下の暗渠を通って石神井池に注いでいる[要出典]。
同池の北側は大正期に創業した茶屋「豊島屋」、石神井公園サービスセンター、高い木立がそびえるアスレチック(遊具あり)・おべんと・くぬぎ(遊具あり)・さくらの各広場、A地区野球場などになっている。同池の北西には豊島氏の伝説に因んだ殿塚、姫塚があり、同池の西はフェンスで囲われた野鳥誘致林、広場(無名)、同池南西は小さな宇賀神社上広場(通称)になっている[要出典]。
北端で富士街道に面する「石神井松の風文化公園」は区立公園である。
石神井池(1934年造成[7]。通称ボート池)は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、同池とともに武蔵野の景観を保護する目的で人工的に作られたものである。元々三宝寺池から石神井川に注ぐ三宝寺川が流れ、その周辺は田んぼで水を引く水路もあったが、一帯を人工的にせき止めるなどして池とした[8]。但し、三宝寺池からの湧水が殆ど期待できなくなった1958年(昭和33年)には、既に157mの深井戸から揚水して池の水を確保していた[7]。それも2013年(平成25年)以降はアオコ対策で井戸を停止し、以前の様に主に三宝寺池からの流入水で池を満たしている[7]。
石神井池は有料のボート池としても知られ、乗り場の近くには売店がある。池の中央より西寄りに「中の島」があり、石橋が架けられていて反対岸に渡れる。池の中にはまた、三澤憲司作のモニュメントが設置されている。釣りについては三宝寺池は全面禁止だが、石神井池は禁止されているエリアと一部認められているエリアがある[要出典]。因みに1930年(昭和5年)に今の池の西部分に養魚場が設置され、戦後は池の西端にもボート乗り場があった時期があり(開設年不明)、1973年(昭和48年)には池内の東端にちびっ子釣り場ができている[9]。
石神井池の南西にはけやき広場があり、その南は丘陵になっていて茅葺きの旧内田家住宅(中村橋から移築)や竪穴建物跡が見られる「池淵史跡公園」、その隣に「石神井公園ふるさと文化館」がある。けやき広場の上はまた稲荷諏訪合神社(小社)も連なる。池淵史跡公園と隣接して「野草観察園」がある[要出典]。
池の南中央西寄りには野外ステージがあり、土手の上は木立に囲まれてベンチなどが置かれ、池を下方に見渡せる。土手の上の細い通りを渡って南に進むと旧三井住友銀行運動場で、2012年から石神井公園草地広場、B地区野球・小野球場、テニスコートなどとして整備された。ここは春には八重桜の名所として知られる[要出典]。また富士山が眺望できるスポットでもある[要出典]。
池の南東は、池淵に花壇があり春にはチューリップが咲くほか、ふくろう広場、土手を登るとくつろぎ広場がある。さらに南には高浜虚子とホトトギス一派による俳句吟行会も催された「石神井公園記念庭園」で小池もあり、庭園の土手を登ると広場(無名)になっている。因みに同記念庭園は1917年(大正6年)頃に豊田銀右衛門が「第二豊田園」として開園したもので、園内には宿泊もできる茶亭もつくられた[10]。当時開通したばかりだった武蔵野鉄道唱歌の歌詞にも第二豊田園は出てくる。
三宝寺池には石神井城落城の際に豊島氏の姫、照姫が身を投げたと言う伝説があり、練馬区では照姫を偲んだ照姫まつりを1988年(昭和63年)より毎年4月 - 5月に開催している。また三宝寺池エリアの北西部に姫塚、殿塚がある。
公園の南から南東にかけては三宝寺池を水源の一つとする石神井川が流れている。
当地を含む石神井町一帯は石神井公園駅、クイーンズ伊勢丹の入ったピアレスなどの商業施設、練馬区役所石神井庁舎もあるため、石神井地区の中心的な存在となっている[要出典]。また近隣は多くが高級住宅街として知られる。西武鉄道は2017年までに一定の完成を見た石神井公園駅周辺の再開発について、「西武線沿線のイメージを形成していく上でのシンボルプロジェクト」としている[要出典]。
石神井城があった公園の近辺には、城主だった豊島氏や豊島氏を滅ぼした太田道灌にまつわる神社や寺院がある[要出典]。
三宝寺池の南側は神社仏閣地帯になっていて、石神井城の鎮守として室町時代に創建された氷川神社があり、この辺りの氏神神社に指定されている。同神社は元々石神井城内の何処かにあったが、豊島氏没落後に今の場所に遷移した。池の名称の由来となり、太田道灌が当地へ移した真言宗寺院の三宝寺(江戸期まで末寺を擁していた本寺格)、豊島(輝時)氏が建てた曹洞宗寺院の道場寺(ねりまの名木、道場寺のクロマツあり)などもある。三宝寺の山門は三代将軍徳川家光が鷹狩の際に休憩に立ち寄った記録が残ることから「御成門(おなりもん)」と呼ばれ、その横には元勝海舟邸にあった長屋門(成増駅近くにあった遊園地兎月園から移設)が設置されている。同寺は不動明王を本尊とし、多くのお堂を配し、高さ9mの十一面観音菩薩像、根本大塔(多宝塔)、白い外観の観音堂、地下にある子育千体地蔵堂(天国地獄絵図あり)、鐘楼(梵鐘が区指定有形文化財)などがある[要出典]。
一方、石神井池の南東の石神井記念庭園の先には真言宗寺院の禅定(ぜんじょう)院(本尊:阿弥陀如来)があり、弘法大師尊像、延命地蔵、いぼ神地蔵などが置かれる。因みに三宝寺と禅定院は御府内八十八箇所霊場。他にも公園の北東、区立和田堀公園の近くには和田稲荷神社、高架北側に離れるが石神井神社がある[要出典]。
石神井公園と細道を挟んで隣接する三宝寺の裏庭には竹林がある。また三宝寺と道場寺の境の通りの道場寺側に高台の緑地スペースがあり、階段で上がると竹林とそれに連なる石神井公園の森を正面に見渡せる[要出典]。
石神井川が石神井公園のすぐ近くを流れており、河川整備事業が行われている[要出典]。
かつて三宝寺池から石神井川へ三宝寺川が流れていて、古称を弁天川といった[注 3]。三宝寺川の多くは周囲の水田などとともに石神井池となり、下流域は三宝寺池の湧水が枯れたことにより流れが消失していたが、1982年(昭和57年)に水路跡を和田堀緑道として整備した。ミニ橋などができ、夏季のみ石神井池の水をろ過して流し下水へと繋がる。
但し、かつて石神井川の水源となっていた水路は遮断され、公園の東端で地下の暗渠に流れ落ちているが[14]、それを再び石神井川に戻す試みも始まっている[注 5]。
かつて石神井公園一帯は多くの釣り堀とプールがあった。川が近く湧水地だったことに拠るかもしれない。石神井池(ボート池)ができる前、1930年(昭和5年)に現在の中之島以西に養魚場(釣り堀)があり、1955年(昭和30年)は三宝寺池エリアの100mプールだった場所に西武鉄道が「石神井釣り道場」を開場[13]。1973年(昭和48年)はボート池内の東端に「ちびっこつり場」(2007年閉鎖)の設置が許可され、区が都から池の一角を借り受け、そこに魚を放流して運営した[9]。また喜楽園、金木園にもそれぞれ釣り堀があり[10]、金木園にはプールもあった。その他、旧住友銀行運動場テニスコートの南下、旧早稲田通りと石神井川の間に、阿佐ヶ谷で1924年(大正13年)創業の釣り堀「寿々木園」の養魚場(金魚、鯉)があった[15]。西武バス石神井公園駅南口 - 南田中車庫行のバス停名に今も残る「喜楽沼」も釣り堀だった[16]。
施設・公園
寺社
川・道路
石神井公園から生まれた作品も多い。
石神井の歴史
地名
信仰
公園・施設
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