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明治時代から大正時代の農業指導者、歌人 ウィキペディアから
石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ、1845年4月1日〈弘化2年2月25日〉 - 1915年〈大正4年〉9月8日)は、秋田県潟上市の篤農家、明治から大正期の農業指導者[1]。秋田県種苗交換会の先覚者。生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げた。
理紀之助は、毎朝3時に掛け板(かけいた)を打ち鳴らして村人たちを眠りから起こし、まだ夜が明けきらないうちから農事に専念し、困窮した村の再建に尽くした。こんな逸話が残っている。ある猛吹雪の朝、理紀之助がいつものように午前3時に掛け板を鳴らし、雪まみれになって家に入ると、妻が言った。「吹雪の朝に掛け板を打ったところで誰にも聞こえない。ましてこの寒さでは誰も起きて仕事などしないだろう」と。すると、理紀之助はこう答えたという。「そうかもしれないが、この村の人々のためだけに掛け板を鳴らしているのではない。ここから500里離れた九州の人々にも、500年後に生まれる人々にも聞こえるように打っているのだ」と。
出羽国秋田郡小泉村(現 秋田県秋田市金足小泉)の奈良周喜治・トクの三男。旧姓は奈良、初名は力之助、雅号は貞直と草木谷。石川理紀之助は奈良家の分家の生まれ。奈良家の宗家は金足村の豪農で、邸宅は秋田県立博物館の付属施設【旧奈良家住宅】として、1965年5月29日に国の重要文化財に指定されている。
奈良家宗家には江戸時代の文化人である菅江真澄が逗留している。石川理紀之助も菅江真澄が残した文章を収集していた。理紀之助は、1898年に自らの蔵書を焼失したことから、郷土の古書を活字にして残そうと出版を計画。理紀之助が編輯して発行した『秋田のむかし(巻一) 』(1898年)には菅江真澄が書き写した『房住山昔物語』が転載されている。真澄による書写本とはいえ、真澄の著作が活字になったのは、これが最初である。
1849年、5歳の頃、祖父喜一郎(号は甦堂、両湖)より文字を習う。
1853年、9歳、手習師匠の神谷与市左衛門に就き、習字を学ぶ。発句の会で「硯にも酒を飲まする寒さかな 力之助」という句を作って一座の人を驚かしたという逸話が残っている。この発句は、寒中の硯水が凍るのを防ぐため、祖父が硯に酒を混ぜて墨をするのを知っていたからである。
1854年、10歳、隣村高岡村の奈良三治の寺子屋に通った。
1855年、11歳、奈良家宗家に2回ばかり来ている菅江真澄の墓を秋田郡寺内村(現 秋田市寺内)に詣でて発見。詣でた日がちょうど真澄の27回忌の命日あたる7月19日で、その偶然に感激して、嬉しさのあまり、思わず「なき人を 慕う心や かよいけん 思わず今日の 時にあうとは」の和歌を吟じている。この和歌が理紀之助の詠歌の最初である。
1858年、14歳、同村の奈良家宗家主人の奈良喜兵衞に若勢奉公する。 (「年少なれど15歳で若勢20余人の若勢頭となる」との従来の説は、奈良家宗家の田地規模約百町歩(10万刈)のうち手作りは2町歩であることから、若勢2~3人の若勢頭であったと見直されている。)
1859年、15歳、この頃より早起きの習慣を養い、生涯午前2時前後の起床をなす。
1860年、16歳、秋田三大歌人(三歌聖、三歌仙)の一人、秋田城下西善寺の蓮阿上人に就き、和歌を学ぶ。1年半の間に約1万5千首の和歌の添削を受け、進境を示す。
1861年、17歳、蓮阿上人[2]から貞直の雅号を授けられる。娘の婿にと見込んでいた宗家主人の奈良喜兵衞は、力之助の歌詠みや学問をやめさせようとして、留守中に歌稿と書物の一切を焼き捨てる。
1863年、19歳、自分の意思なく奈良家宗家の娘イシの婿として結婚させられる。一説に宗家の長男岩治の養弟となる。しかしながら、奈良家の分家法に従って42歳まで働いて、後に12~13町歩(一説に1万刈)の田地を貰った分家ではたいしたことはない。好きな学問を修め、歌道を究めたいと考え、江戸への遊学を願ったが許されなかった。
力之助はこのままの人生を送るにはとりかえしのつかないものになってしまうことを感じ、奈良家宗家を脱し江戸を目指して家出することにした。力之助は蓮阿上人に決意を語り、適当な奉公口を願い出た。
蓮阿上人は、京都の歌人大田垣蓮月に和歌を学んで蓮阿の号を賜り、京都の遠州公御流大森家茶道(現在の茶道玉川遠州流)4代家元大森宗震に閑院宮家と有栖川宮家の茶道を学んだ人物である[3]。
力之助の決意に驚いた蓮阿上人は、やむを得ないと見てとると、早速知り合いの上肴町の橋本治兵衛と川口善助の二人に相談した。橋本治兵衛は、秋田市の橋本家に入婿した理紀之助の祖父奈良喜一郎の弟 奈良源之助である。三人は相談の結果、豪商で奉公人に暇を見て技芸を磨かせる家風の雄勝郡川連村(現 湯沢市川連町)の高橋利兵衛家[4]を選び、7代高橋利兵衛への丁寧な依頼の書面をしたためた[5]。
川連村を目指した力之助は、二朱の小遣い銭を使い果たしていた。途中、増田町の曹洞宗満福寺の第25世徳應禅孝大和尚に逢った。聴かれるままに話すと、禅孝大和尚は、「書面の通り、和歌の勉強ならば川連村の久保という部落に高橋利兵衛という偉い方がいるからその方に相談せよ」とのことで、力之助は増田町から川連村までの7km(実測)を歩いて高橋利兵衛を訪ねた。利兵衛は蓮阿上人らの書状を見て信用し、まずは裏地の蔬菜(そさい)畑や養鶏などの世話をさせることにした。利兵衛は力之助の読書と和歌の勉学に感心し、「和歌の勉強ならば江戸まで行く必要はない。隣部落の野村に小野小町の再来といわれている後藤逸女[6]という和歌の大家がいるから、その方を訪ねて学べ」と教示した。後藤逸女は長男誕生の3年後に夫が亡くなり、秋田藩の江戸藩邸に出仕するも父の発病で一切の名利栄達を捨てて帰秋。2~4年後に父を亡くし、精神障害の長男と二人の孫、体の弱い母の一家5人の大黒柱として農作業に従事することに一生をささげ、苦しい生活にあっても和歌を続けることに自分の生きる喜びを見い出して生活をしている人生の達人であった。力之助は、かねてから聞いている歌人の後藤逸女がこの辺りに住んでいると聞いて飛び立つばかりに喜び、久保から野村までの4町(実測800m丁度)を歩いて、どこか顔に品のある老婆を見かけ、来意を述べた。力之助は、逸女の家の中で歌道や和学の話を聴き、その蘊蓄の深さに敬服した。逸女は当時49歳、孝子として、貞女として、歌人として、すこぶる孝徳の老婦人であった。力之助は、逸女が悟りの生活に徹し、誠なるものを求めてせまらない姿を見て感動した。古い農民生活、ただ働きそして虫けらのように死んでいくはかない運命にあきたらなく、自分の人生を求めてここに逃れて来た力之助である。貧しい老婆がこの天地の間に実に大きく悠然として息づいている素晴らしい現実に驚いた。力之助はここで後藤逸女とめぐりあい、自らの生きる方向をはっきりとつかむことになる。力之助は、川連村滞在中の1ヶ年、利兵衛の使用人となりながら、暇ある毎に逸女を訪れて歌道に精進する。そして和歌や和学の話を聴いて、自らの生きる理想を確かなものとして育てていったのである。かくして、力之助は、後には思うこと、言うことが直に和歌になった。理紀之助は書道の指導も受け、潟上市石川翁資料館所蔵の理紀之助の若き日の和歌の書体は逸女の書体と同じである。この理由から、理紀之助はその恩顧を余ほど深く感じたものと見えて、1890年(明治23年)、草木谷の堤に逸女碑を建立している[7]。1900年(明治33年)可祝庵(かしくあん)への引越で可祝庵の門前に移設。さらに、1905年(明治38年6月27日)、古人堂文庫(旧地)の前に移設。可祝庵を建てて定住することにした時に草木谷から移し、さらに尚庵(しょうあん)に住まなければいけなくなった時に空き地がなく古人堂文庫の前に移している。この一連のことから、理紀之助は逸女の碑を常に自分の住居近くに置き、逸女の生き方を自分の生き方の心の支えにしたことがわかる。理紀之助没後の1982年(昭和57年)以降、逸女碑は、古人堂文庫と遺書文庫と一緒に現在の地に移されている。
歌人を志して家出した力之助は、後藤逸女の紹介で、61歳の高橋正作に会い、自らの人生の方向を決める。高橋正作は雄勝郡桑ヶ崎村の肝煎(村長)で、私財を投じて天保の大飢饉から農民を救い、地元の院内銀山を日本一の銀山に復活させた人物である。「自分は、窮民を命がけで救済する正作翁のような農業指導者、そして実践の教えを和歌で示す歌人にもなる。窮民を救い、教えを書で示す生涯こそがもっとも尊い」との志を抱いた。高橋正作は1894年(明治27年)92歳で死去した。最愛の師を失った理紀之助は声を上げて泣いた。その後、理紀之助は、県内の92ヶ所で高橋正作の追悼法要を行った。
さらに、力之助は、川連村で、12歳年上の伊勢多右衞門(初名は関恒松、2代関喜内の三男)[8]を知る。
1899年(明治32年)元旦、理紀之助は川連村の元村長の8代高橋利兵衛を訪れ、後藤逸女の墓を参拝している[9]。
1864年、20歳、父の召しに応じ、遊学を断念し帰る。7月宗家より離縁となり、復籍。生家で父の農耕を助け、家業に励んだ。
1865年、21歳、下虻川の肝煎の口ききで、隣村である南秋田郡山田村(現 潟上市昭和豊川山田)の肝煎 石川長十郎の長女 志和子(戸籍はスワ)と結婚し、婿となる。石川家の借金を5年で返済する。
1866年、22歳、名前を力之助から理紀之助に改める。この頃、小作米取立法を定め、雑木林と貯水池の紛争を解決する。
1872年(明治5年)から1883年(明治16年)までの12年間、秋田県庁に出仕する。その間、現在まで秋田県で毎年開催されるイベント種苗交換会を創設した。また、1880年歴観農話連を組織して、秋田県の農業の土台を作った。貧農を救済したいという思いから、秋田県庁を辞職。辞職後は生涯を農家経営の指導や、農村経済の確立に尽くした。当時は高利で借りた借金から、自作農が減少し、夜逃げする農民が頻発するようになっていた。理紀之助は「農民全てが豊かになり、みんなが自作農にならないかぎり、この指導は成功しないのではないだろうか。」と思っていた。
1877年(明治10年)4月、秋田県は明治の三老農の一人中村直三を招き、理紀之助とともに勧業吏として農業革新を計る。中村直三は明治11年県を去る。
1877年(明治10年)10月、33歳、内国勧業博覧会の用務で初めて上京。
1878年(明治11年)9月10日~19日、第1回秋田県勧業会議が秋田市浄願寺で開催される。由利郡平沢村役場勧業係の佐藤九十郎が、「農業振興のため、収穫の秋に優れた農産物を一堂に展示し、その種子を交換したらどうか」と提案。このアイデアを当時、県庁在勤中の理紀之助が全面的に賛成し、即時第1回の会を開催するように石田英吉県令(知事)に上申、実現する。11月29日~12月5日、第1回種子交換会(後の種苗交換会)が秋田市八橋で開催された。従って、正確に言えば“生みの親”は佐藤九十郎、“育ての親”は石川理紀之助である。それがいつの間にか理紀之助一人のものになったのは、まだアイデアが評価されない時代だったからか。当時の佐藤九十郎は35歳、理紀之助は34歳。若くて柔軟な頭脳が新鮮な案を生み、はち切れんばかりの馬力と情熱がその年のうちに種子交換会を実現したと思われる。佐藤九十郎は、後に本荘町の助役を務めた。
1879年(明治12年)、35歳、県の勧業御用掛として県内四老農(農業の賢人)[10]を推挙し、県に任命してもらう。県内四老農は高齢の老人で、とても勧業御用掛として指導の第一線に立って活躍できるような人達ではなかった。理紀之助が推挙した理由は、幕末からそれぞれの地に在住して、地方の農業開発のため努力してきたこの四老農の功績を顕彰し、体得している貴重な農業技術を少しでも多くの農民によって継承してもらいたいからであった。理紀之助は、農民や農業の指導は単に技術や知識のみの伝達によってなし得るものではないという信念をもっていた。
1880年(明治13年)6月1日、36歳、県が中心となる会ではなく、いつでも自由に会合ができるように農民同志、農民自身の会とするため、県内四老農、地主74名の参加を得て民間勧業団体【歴観農話連(れきかんのうわれん)】を結成。会員500名。【歴観農話連】は、老農の長年の経験から身につけた農業技術を教えてもらう勉強会で、1898年(明治31年)まで続く。
1880年には県会議員に当選している。当時の選挙法は立候補を必要としていなかった。驚いた理紀之助は直ぐに辞職をしている。
1881年(明治14年)3月、37歳、内国勧業博覧会に係官として上京。石川は2月15日に内国勧業博御用掛となった前田正名を知る。明治14年設立の農商務省の農商務大輔(たいふ)の品川弥二郎に認められ、中央官庁に出仕するように薦められる。しかし、秋田県の勧業のために働くと固辞して受け付けなかった。念頭にあるのは、出世ではなく、ただ秋田県の農業のことであった。以降、品川公は、秋田県知事に転任するために挨拶に来る人々に対して【秋田に石川という勧業に熱心な人がいるから、よろしくと伝えてくれ】といわれるようになり、石川は歴代の知事からその伝言を聞いている[11]。
1881年(明治14年)4月16日、前田正名32歳、大久保利通の姪石原イチと大久保邸で結婚。正名の親代わりは長崎留学時代からの親しみをもってフランスへ留学するときに先輩として世話をした大隈重信、媒酌人は鹿児島同郷の先輩松方正義夫妻であった[12]。前田正名は同年8月6日大蔵省大書記官、11月5日大蔵省大書記官兼農商務省大書記官、11月8日に理事官となり欧米両州の産業経済事情調査を海外で1年2ヶ月行なう。
1881年(明治14年)9月の明治天皇の秋田県巡幸で後藤逸女[13]と糸井茂助[14]が宮内卿・侍従長の徳大寺実則に会えるのは、石川が前田正名へ依頼して9月初旬の巡幸先発官の審査を通ったためと考えられる。
1883年(明治16年)、39歳、江戸時代羽後国秋田郡七日市村(現 秋田県北秋田市七日市)の肝煎、長崎七左衛門が著した『老農置土産並びに添日記』[15](1785年(天明5年))と『農業心得記』[16](1816年(文化13年))を、『歴観農話連報告 第二号』[17](明治16年11月号)に全文掲載して種苗交換会の談話会員に配布し、各地老農の研究に資した。
1885年(明治18年)、41歳、自村の豊川村山田の戸数は25戸で、内訳は農業21戸、雑業4戸である[18]。石川は、農業21戸のうち借金のある17戸を救うため、そして、借金の有無にかかわらず村人が一致団結して事業に取り組むことを誓って、【山田経済会】[19]を設立した。
石川は収穫量を多くするため堆肥を2倍にしたり、生活費をきりつめたり、藁製品や蚕、果物を販売して居村 南秋田郡山田村の借金を7年で返済する計画を立て、5年で全額返済する。村人に朝仕事を励行させるための午前3時の【板木うち】がこの時から始まった。吹雪の朝も、元旦の朝も、3時に板木を打って、それから1軒1軒を巡回し、村人を励ました。石川は巡回した時、まだ寝ている家があっても、むやみに叱ろうとはせずに、その弱い心のために、共同作業、月例の集会、農祝いなどを行った。特別に借金が多く、耕地が少ない者には、自分の耕地や、村有地の一部を貸した。
1888年陽暦9月8日、44歳、農商務大臣井上馨の招請を受けて妻と上京。農商務省で、郷里南秋田郡豊川村山田の農業改革の実績を発表し、【経済のことば 14ヶ条】を披瀝した。その中でも【寝て居て人を起こす事勿れ】は、実践躬行、率先垂範を意味し、理紀之助の深いあたたかな人間愛から生まれてきた訓言である。この訓言は有名で、農業や企業経営に携わる人たちのみならず、現代人全般に向けたメッセージとして語りつがれている。
農商務省での講話の一切は『農商工公報』第46号附録となって1888年(明治21年)12月15日に刊行され、全国の関係官庁や有志に頒布された。そのため、石川の名声は、遂に全国の篤農家に知られるようになった。帰途、山梨県知事の前田正名に招かれて甲府にて講話し、身延山に参詣。また、千葉県を視察、講話をした。
なお、【経済のことば 14ヶ条】は、『農商工公報 第46号附録』(農商務省、1888年(明治21年)12月15日)の内容が『山田村経済新報記事』(農林省、1936年(昭和11年)12月18日発行)で一部分が訂正されているが、今日まで『農商工公報』の【経済のことば 14ヶ条】の影響を受けて記載している書物が散見される。
1889年(明治22年)2月1日の町村制施行により、南秋田郡山田村は南秋田郡豊川村山田となる。
1889年6月、養父長十郎が没した。
1889年、45歳、【山田経済会】の借金返済計画は見事にみのり、計画の7年より2年短い5年で借金の全額を返済した。世人は目をみはって奇跡に近いこの成功の秘策を尋ね、その実績と過程についての発表を求めた。
1889年9月、収入が殆どない貧農の小作農の気持ちや実態に合った指導ではないという世論の反論を素直に受け、自ら貧農生活を実践するため、草木谷(南秋田郡豊川村山田市ノ坪)で実際に貧農の生活を経験する山居生活に入る。草木谷は理紀之助の称した名称で、約1町歩(1ヘクタール)の土地がある。ここの水田は条件の悪い7~9反歩で、年によって面積が異なる。理紀之助はこの谷間に独居して、耕地の小作人となって貧農生活を始める。当時は自宅から山居迄は山越えが必要であったが、今は道路が整備され、潟上市郷土文化保存伝習館から山居跡の五時庵迄の距離は実測で1.7kmである。そして、自らの主張する方法が貧農救済に役立つということを身をもって示した。
1890年(明治23年)、46歳、【山田経済会】第2期計画を立てる。
1890年(明治23年)、秋田県有志は、稲種の研究、農具の改良で名をなし、『農家得失弁』の著がある明治の三老農の一人奈良専二[20]を招く。
1890年、政府は予算で650万円削減したが、国庫の収入の増額を地租の増収とした。650万円は国費総額の5分の1にあたる。理紀之助はこの時、6,500字の意見書を書き、具体的数値をあげ統計を引用し、古今、東西の事例と比較して理路整然と地租増収の反対を論述している。
1891年、47歳、理紀之助は地価修正反対委員として沢木晨吉、目黒貞治、岡田正藏、佐々木慶助の諸氏で上京。当時の秋田県の国会議員五氏(二田是儀、成田直衛、佐藤敏郎、斎藤勘七、武石敬治)を応援し、政府に意見書として発表し、天下の公平な判断を仰いだ。反対委員は、実地調査意見書の理紀之助、運動者は嵯峨重郎と目黒貞治、会計は沢木晨吉と北島孫吉であった。理紀之助らの活動が功を奏し、地価修正案は3月14日の衆議院議会において18票差で否決された。
1894年9月1日の第4回衆議院議員総選挙に、秋田県第1区から立候補し、落選。得票数は、目黒貞治が632票(当選)、大久保鉄作が531票、石川理紀之助は2票。石川理紀之助は、記録上では、この選挙に立候補したことになっている。しかしながら、理紀之助は選挙に関わらないことを家訓にしており、理紀之助の史料に立候補した記録も残っていない。従って、理紀之助本人の意思による立候補であったかは、今後の研究課題である。
1894年11月、50歳、同志3名(森川源三郎、伊藤福治、佐藤政治)を伴い、東京にて雄勝郡山田村の中島太治兵衛も一行に加わり、東京芝公園の弥生館で開催された第1回農事大会に出席。総裁の北白川宮能久親王から日本一の老農として大日本農会紅白綬有功章を受け、閉会式に全会員を代表して答辞を述べた。前田正名の企画で、北白川宮能久親王の台命によって農事奨励のため九州各地の巡回講演を委嘱される。途中、広島大本営に天機を奉伺し、質素なる明治天皇の日常を拝見し感激を新たにする。翌年5月まで、熊本県1市8郡の9ヶ所、宮崎県7郡の8ヶ所、鹿児島県1市7郡の9ヶ所、長崎県1市5郡の11ヶ所、福岡県15郡21ヶ所、大分県15ヶ所の九州6県(佐賀県除く)の73ヶ所で延べ10,370人を前に豊川村山田の救済と草木谷の貧農生活を講演した。
1895年、51歳、町村農会設立のため奔走し、南秋田郡農会長となる。さらに、県農会を設立し、初代会長となる。理紀之助と森川源三郎の努力によって秋田果実組合が設立される。9月、山形市で開催された奥羽農事大会で講演。12月、四国各県、千葉県を巡回講演した。
1896年、52歳、秋田県農会の委嘱を受け、県内7郡48町村の適産調を開始する。理紀之助の肩から下げた袋の中には、どこで倒れてもよいように、顔を覆う白布、葬儀料、届けのための戸籍謄本が入っていた。適産調は、現代風に言えば、地域農業の関係者が協力し、農地、施設、労働力などの農業資源の分析や営農計画の策定、その具体的活動計画の推進の基礎を担ったものと考えられる。理紀之助は、最終日には徳行者と功労者を表彰し、感謝状を贈った。適産調の目的は、農業の衰退を回復し、将来の維持方法を設け、かつその実行の順序を確定するための資料を作成し、農家の本分を尽くして公共心を養い、町村経済の基礎を強固にするためである。適産調の調査内容は、土地によって気候や土質などの環境が異なるため、農村戸数、人口、土壌、気候、租税負担、土地所有、経済状況、生産状況、労働の仕方、生活習慣、農業団体、副業、村の歴史などである。南秋田郡は35町村のうち、16町村は適産調、19町村は土壌調査のみ実施した。1902年まで7カ年の歳月を費やして、秋田県と福島県三代村の2県8郡49町村を調査し、731冊の本にまとめた。
1897年の県内大凶作のため、1898年に県内60ヶ所を巡回し救荒策を実施。救荒策の最重要地区である横手市山内地域は5月5日~9日の5日間実施し、山奥の三又(三ノ又村)に5月8日~9日の2日間を費やして凶作を生き抜く策を教えて村民を救った。救荒策実施中の1898年5月23日、草木谷山居が放火されて焼失。日誌、詠草、著書70余巻、蔵書二千余巻をことごとく失う。
1899年5月11日、55歳、青森の第5回陸羽農事大会(東北実業大会)に出席し、前田正名に会う。帰途中、5月14日~17日に小坂町の適産調を実施した。
1899年6月9日、国法による農会法が公布され翌年4月1日施行[21]のため、1899年11月11日に県農会長を辞職。
1900年1月10日、56歳、候庵から後の住居の可祝庵(かしくあん)の建築に取り掛かり、1月28日に可祝庵に移り住む。可祝(かしく)は、女性の手紙の結語【かしこ】の音変化である。候庵を農会事務所とする。1月14日、南秋田郡農会長を辞し顧問となる。4月9日、本宅と墓所の中間(現在の資料館周辺)に果樹を植える。
1901年8月9日、57歳、賞勲局から農業功労者として緑綬褒章に銀杯を併せて下賜される。
1901年12月19日、農商務次官で大日本農会幹事長であった前田正名に、適産調の状況と秋田県各村の反応を述べ、南秋田郡完了後どのようにしたらよいかという半ば相談の形の手紙を出す。
12月25日、前田正名から、桜島の噴火で北諸縣郡山田村の谷頭地区に避難した農民の開拓の志を起こさせてほしい旨の手紙が届く。
1902年(明治35年)1月6日、58歳、適産調役員会議を開催し、前田正名からの指導出張依頼の手紙について協議。前田正名に協力して宮崎県に行くかどうか、各自、家族と相談の上、9日まで書面で返事することを約束する。
1月9日、前田正名から依頼した要件の返事催促の電報あり。
1月13日、前田正名に手紙を送る。
1月18日、嗣子次男老之助の詠進した新年御題「梅」が御前披講に決定する。
1月30日、御前披講の祝賀歌会を開催。九州行きを決定する。
2月~3月はその準備に没頭する。九州への出立にあたって、1人百円ずつを用意。五十円は往復の旅費、五十円は病気などの備金として貯金する[22]。
4月1日石川自村を出立。2日、森川源三郎、佐藤政治、伊藤甚一、伊藤与助、田仲源治、伊藤永助、佐藤市太郎の同志7名と能代駅を出立し、弘前、青森着。
3日仙台。4日東京(5人)水戸回り(3人)。5日東京の取引の書店訪問。6日水戸回り(3人)と東京で合流。7日中島歌子に会う。8日新橋発、名古屋。9日京都。10~11日奈良県吉野見物。12日奈良見物。13日東本願寺参詣、建仁寺の方丈 (ほうじょう、禅宗寺院の居室)にて邦光社大歌会、田仲源治の妹と佐藤政治の娵(よめ)が7日に病死の電報を受け取る。14~15日京都で前田正名に会い、15日は五二会及び第2回全国実業大会の開会に出席し平田東助農商務大臣に面謁。16日京都発、下関着、汽船で門司着、門司発夜行。17日大宰府参詣、熊本着、三角薩摩屋発船夜行。18日鹿児島着。18日と19日は前田正則に二泊。19日は終日、鹿児島市の深江芳太郎の案内で鹿児島見物。
20日3時起、深江芳太郎の案内で、午前7時鹿児島~国分まで汽車、それより車で午後5時、日向国北諸縣郡山田村字谷頭村の前田開墾事務所(谷頭一歩園)に到着。
4月21日午前2時起床、午前直ちに村人60~70名に出張の趣旨を講話。指導開始、深江芳太郎帰る。深江芳太郎は5月9日、10月11日当地を訪問。
一行8人は、前田正名の事業に協力して、村づくり指導で10月1日までの6ヶ月間滞在。日中は地区内を巡回して農業を指導し、夜は宿所兼夜学校で、礼儀作法、算術、読書、作文、竹細工などを指導した。理紀之助らは、わずか半年間の夜学会であったが、一行8人の懇切丁寧な指導は地区民の信望を集めた。九州滞在中、石川の小泉の実家の兄奈良恒助が5月8日に死亡。ついで6月20日、恒助の妻女(理紀之助の義姉)が死亡している。
9月16日、石川は病気のため不勤、先祖の苦労を忘れないための祈念碑【しまうつりの碑】を完工、部落民が建碑祭を行う。石川一行は建碑祭に出席し参拝、祝宴は不参。ただし建碑祭と祝宴に石川一行が補助金1円87銭を出す。
10月2日~13日、小根占村(現 鹿児島県南大隅町)に滞在し、講話。
10月14日~18日、鹿児島市に滞在し、講話。15日は、谷頭から理紀之助一行についてきた夜学生3人の父兄3人が迎えに来て、16日午前10時に別れる。夜学生3人は、櫻原金之助(22歳)、村岡新之助(15歳)、竹森重二(13歳)である。
10月19日、午前7時鹿児島発車、車外見送り8名、車内は深江芳太郎らが加治木八幡神社(通称岩下八幡神社)まで見送る。国分駅(現在の隼人駅)着、八幡神社参拝、午後国分村で講話。
石川一行の宮崎県と鹿児島県の指導の成果を物語る資料の一部が石川翁資料館にある。夜学会108名(谷頭事務所62名、干草事務所46名)、貯金525人(宮崎県10ヶ部落442人、鹿児島県2ヶ部落83人)、夜学舎6ヶ所設立、講話及び諸会36ヶ所、講話125回、品評会2回、書類25冊、建碑 しまうつりの碑、試験田15ヶ所となっている[23]。
10月31日~11月6日、福島県三代村で適産調を行う。
11月8日に帰村。
1903年2月2日、59歳、和歌の師 中島歌子の葬儀に参列。
1903年9月4日、後継者の次男 老之助が病没(享年34)。墓碑は旧暦の明治三十六年陰七月十三日卒。
1905年5月9日、61歳、石川理紀之助は、地元の豊川村山田の人々に残すべき40条の訓言を屏風に書いた。裏には貯金預証を張り付けてある。屏風は、豊川村山田の【山田経済会】を作った当時の心を忘れるなという意味をこめ、修身斉家の道を書き連ねた。屏風の内容は、次の通りである。
天地の御恩を忘するべからず。産土神氏神を敬い、祖先の御墓を大切にすべし。父母を始め凡て老人を大切にすべし。但し良きものを喰わせ着するより心に苦労をかけべからず。兄弟姉妹嫁姑の間睦ましかるべし。女房の言うことを、みだりに用ゆべからず。子孫の愛におぼれて、我侭さすべからず。父母なき子、夫婦に後れし老人、かたわ、病人は恵むべし。みだりに生物を殺すべからず。廃れたるものは、人も器物もなるべく用ゆべし。村中は殊に睦まじくすべし。正直と礼を正しくすべし。自ら働きて人を使うべし。人の上は言うべからず。万事、堪忍すべし。難儀なる事は自分にして易きことは人にゆずるべし。人より仇されたらば、恩にて返すべし。物知り顔すべからず。予算を立て、竈(かまど)を持つべし。朝寝、夜更かし(よふかし)すべからず。遊芸を学ぶべからず。暇あらば学問すべし。無尽を建べからず、加入すべからず。利益ありとて、家業の外の事すべからず。家産は祖先のもの也。人の保証となるべからず。馬口労すべからず。大酒呑むべからず。博奕は勿論賭け事すべからず。煙草のむべからず。流行に入るべからず。深く料理を好むべからず。地形の境を正しくすべし。山林を大切にすべし。貯金、饑飢、備え等怠るべからず。備えは貸すべからず。度々取替るべからず。組合および村中の者へ必ず貸すべからず。この屏風を用いる婚礼と葬式は人の竃に奢りの入る時也。慎むべし。貢租は勿論、他に収むべきものは窮する程速にすべし。経済会は同じ事にても、相談の上すべし。此の事、一身に行わざれば身修まらず、一家に行わざれば家衰う、一村に行わざれば村乱る。慎むべし。 明治三十八年五月九日 於尚庵(しょうあんにおいて) 石川理紀之助 記す
1905年5月9日同日、伊藤甚一は、石川理紀之助の屏風を基に、部落貸し出し用の屏風を作っている。両方の屏風を比較すると、伊藤甚一は石川の屏風をそのまま写さず、少々アレンジしたことがわかる。
1905年6月27日、61歳、石川は、吉凶屏風を部落民に披露する。同日、古人堂文庫の前に2月5日に草木谷から移してきていた後藤逸女の歌碑を建てる。
1905年、自ら棺及び墓碑を用意しつつ、世のために奔走。
1907年、63歳、御歌所長高崎正風の古希寿宴に地方三歌人として招かれる。
1908年、64歳、東宮の秋田行啓に際し、令旨及び菓子を拝領する。1908年と1911年には、東北歌道大会を秋田で開催。当時の御歌所長の高崎正風を2回招待して、歌道の普及に尽力する。地方人にして詠進し、下賜品を得たのは、異数の出来事であった。
1908年、有栖川宮家10代有栖川宮威仁親王の慰子妃より理紀之助に詠進の内命があったので、「山賊(やまがつ)が 市にひさげる 炭俵 口ばかりこそ よき世なりけれ」の和歌一首を奉る。
1910年、66歳、山田の村民が、八幡神社の祭典に理紀之助の木像を祠に納めた。末長く村を見守ってもうらう意味で、いわゆる生祀とは異なるものであった。
1910年、66歳、秋田県米穀検査所生産米検査部長を拝命。
1911年、慰子妃は、手箱と菊紋形短冊箱の下賜品に添えて、「世の中の 人のねぶりも さますべし 天(あめ)にちかひて つくかねの音(ね)は」の和歌一首を贈った。
1912年4月10日、68歳、住まい近くの茶畠に木庵を建てる。後に元木庵と命名する。現在の茶畠文庫である。
1912年、秦豊助秋田県知事から懇望されて秋田県仙北郡西仙北町強首村九升田の農民を救済・更生指導した。同年、森正隆新潟県知事(前秋田県知事)に招かれて、新潟県で講話。
1913年、69歳、宮城県知事に就任した森正隆に招かれて、宮城県で講話。
1914年、70歳、福島県、宮城県、岩手県に、出張講話する。8月17日(旧暦 6月26日)、妻 志和子(戸籍はスワ)病没(享年66)。墓表は前田正名の書で「石川理紀之助宝 志和子之墓 大正三年七月十七日卒」で一致しない。
宮城県登米郡の半田卯内[24]郡長の学校教育の振興に力を注ぐ姿勢に共感。半田郡長の招請を受けて、1914年10月6日、広大な水田となった中田沼の開墾地を訪問。感慨の和歌一首を詠む。【中田沼の開田を見て 底ふかき中田のぬまも田となりて いまはいなほのなみのみぞたつ】。この和歌の碑が登米市中田町の大泉揚水機場にある。中田沼は天和年間(1681~83年)新田開発のため堤防を築いて作られた人口沼。面積は582ヘクタール(宮城県分499ヘクタール、岩手県分42ヘクタール、中田分41ヘクタール)で、東京ドームの124個分の面積。1907~1912年にかけて登米郡の事業として干拓が行われて水田となっている。
1914年10月20日、秦豊助秋田県知事、郡長ら数十名の参列のもと、平鹿郡角間川町木内、布晒部落の救済事業を開始。角間川の中村吉太郎宅を事務所兼住居とする。12月30日、木内に指導助手と考えていた小野岡義民が引越する。
1915年、71歳、北秋田郡阿仁合町の菊池長三郎が、『石川理紀之助百歌集(原本の外題は石川理記之助百歌集)』を装丁する。同年8月5日、強首村九升田指導第一期完了。同年8月17日、この日から床に伏す。
亡くなる2日前の9月6日に、秋田県知事の阪本三郎(坂本三郎ともいう)に奉書を書く。奉書は、言葉が美で実践に欠ける公務員を嫌うことを示している。
理紀之助の門人、伊藤甚一自筆の日記【奉書 坂本公】
理紀之助の門人、佐藤政治自筆の記録【奉書 阪本公】
研究者、川上富三の記載【奉書 坂本公へ】
伊藤甚一・佐藤政治・川上富三の【奉書】の比較
辞世の歌は次の通りである。
1915年(大正4年)9月8日午前9時40分永眠、享年71。法名は天聖院殿実禅密行大居士。9月9日午後10時電報で農事改良の功労者として従七位[25]追贈。
1915年9月10日正午より葬儀が挙行され、石川の師たる蓮阿上人の分骨碑の真向かいに埋葬し、記念として銀杏一本を傍らに植えられた。
1916年~1995年(大正5年~平成7年)の史実は、『石川理紀之助翁生誕150年記念誌』の55頁~84頁に詳しく記されている。
1918年9月8日、秋田市八橋の日吉八幡神社に【石川翁碑】が建立される。碑文は前田正名の撰並書。三浦亀朋刻。
1920年(大正9年)、石川の子孫と門人と地域住民が石川会を結成する。
1921年8月28日、石川の7回忌を記念すべく、尚庵歌会の発起の下に広く歌友の出捐を得て歌碑「磨くその力によりて瓦とも玉ともなるは心なりけり(原文は、み可くそ能力耳よ里帝瓦とも玉ともなる盤故々ろなり介利)」が建立される。三浦亀朋刻。
1936年、南秋田郡教育会と南秋田郡小学校長会により、理紀之助の業績を讃える【石川翁山居之跡記念碑】の除幕式が南秋田郡豊川村山田草木谷(現 潟上市昭和豊川山田字市ノ坪)で盛大に開催された。
1937年初秋、【石川理紀之助百歌集】が隣県から秋田県立図書館にもたらされ、譲渡の交渉が始まる。
1947年(昭和22年)8月12日、昭和天皇が南秋田郡昭和町(現 潟上市昭和)に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)[26]。町内の展望台で石川理紀之助に関する説明を聞いた[27]。石川の遺蹟陳列場では一々遺蹟品に手を触れつつ、特に石川の【寝ていて人を起すことなかれ】の書には一入興味深げに目を止め、石川の孫にあたる石川太郎(54歳)には【祖父の志をついでしっかりやってね】と言葉をかけた。
1957年(昭和32年)、財団法人石川翁遺跡保存会が設立された。
1964年、石川理紀之助翁50年祭が昭和町で開催された。
1991年(平成3年)、石川理紀之助翁顕彰会が設立された。
1996年12月8日、宮崎県都城市民は、石川の功績を讃えるため、JR九州吉都線谷頭駅前に胸像を建立。
2004年5月1日、石川翁顕彰会が『石川翁顕彰会会報復刻版 第39号~創刊号 (平成16年~平成2年)』を発行。
2004年10月13日、石川翁顕彰会が『歌集「歌ぶくろ」 石川翁顕彰短歌大会十周年記念誌』を発行する。
2007年6月23日~8月5日、秋田県立博物館が秋田の先覚記念室企画コーナー展「歌人後藤逸女~和歌に生きた生涯~」を開催。
2008年1月18日、福田康夫首相は、施政方針演説の結びで、『心のじょうぎ』(財団法人石川翁遺蹟保存会認可記念、石川榮太郎発行、1957年)6頁記載の石川理紀之助の名言「井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ」を引用して、「井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ」と自身の決意を表明した。
2009年、瀬之口ヤス子が明治35年の石川一行8人の宮崎県中霧島村谷頭地区の村づくり様子の伝記(絵本)を出版。
2011年、都城市民40名が【山田のかかし笑劇団】を結成。石川ら一行8人が身をもって示した勤労や倹約の姿勢、ボランティア精神を伝える。
2014年1月18日~3月20日、【平成25年文化庁劇場・音楽等活性化事業 わらび座ミュージカル ~石川理紀之助ものがたり~ リキノスケ、走る!】が、たざわこ芸術村小劇場で開催。公演回数59回。わらび座63年の歴史の中で小劇場最高の入場者数8,150名を達成した。
2014年、潟上市と宮崎県都城市山田町地区の住民や教育関係者でつくる山田地域づくり推進協議会が、教育交流事業を開始。
2014年11月16日、後藤逸女研究家の小林忠通が、『後藤逸女生誕200年記念石川理紀之助没後100年記念 秋田県立図書館所蔵、秋田県公文書館所蔵 後藤逸女・石川理紀之助・釈蓮阿・佐竹義厚公・蓮月尼・菅江真澄の書を読み解く』を発刊。
2015年6月、都城市の【山田のかかし笑劇団】が来秋。【山田のかかし笑劇団】は、潟上市大豊小学校、秋田県立博物館、秋田グリーンサムの杜で、都城市の農民を救った演劇【石川理紀之助翁物語】を映像も交えて公演。
2015年6月18日の衆議院予算委員会の質疑で、秋田三区の衆議院議員村岡敏英は、安倍晋三内閣総理大臣と麻生太郎副総理に、農業の大改革に向けての必要な精神として、【石川理紀之助翁は500里離れた人々にも、500年後に生まれる人々にも聞こえるように掛け板(かけいた)を打ち鳴らしている】という真に人の心を打つエピソードを紹介し、【寝て居て人を起こす事勿れ】の訓言を説明した。
2015年6月20日、NPO法人 秋田グリーンサム倶楽部が、『「改革者」たちの軌跡 チーム「石川理紀之助」が現代に遺したもの』を発刊。同日、後藤逸女&石川理紀之助研究家の小林忠通が、『秋田県立図書館所蔵 日本人の心 定本 石川理紀之助百歌集』を発刊。
2015年7月、潟上市の「潟上の地域資源を探る会」が、農事指導者 石川理紀之助と地元の指導者 菅原源八の名言や短歌を集めた日めくりカレンダーを発刊。
2015年9月12日、小林忠通が、『秋田県立図書館所蔵 日本人の心 定本 石川理紀之助百歌集 増補改訂版』を発刊。同日、潟上市の石川翁顕彰会が、【石川理紀之助翁生誕170年・没後100年記念事業記念講演会】を潟上市昭和公民館で開催。
2015年9月26日から11月30日まで、秋田県立博物館が【生誕170年 没後100年 理紀之助と貞直 ~農聖の底に流れるもの~】を開催。
2015年10月10日から12月13日まで、横手市立平鹿図書館が【石川理紀之助展】を開催、同館所蔵の貴重書『苹果品定(へいかしなさだめ) 石川理紀之助著』を展示した。
2015年10月22日から11月8日まで、秋田県立図書館が【生誕170年 没後100年 秋田の先覚 石川理紀之助展】を開催。貴重資料17点を展示した。
2015年11月3日、潟上市教育委員会が、石川理紀之助の偉業を市内外に広く知ってもらうことと地域力の向上を目指して、第8回石川理紀之助翁検定を昭和公民館で開催。
2015年11月7日、石川翁顕彰会が、和歌を詠んだ石川理紀之助にちなんだ第21回石川翁顕彰短歌大会を昭和公民館で開催。
2015年11月11日から2日間、秋田県潟上市の石川翁顕彰会26名が都城市山田町を訪問。【山田のかかし笑劇団】の案内で、1902年に石川理紀之助らが建立した【しまうつりの碑】、1996年に都城市民が石川理紀之助の功績を讃えるために建立された石川理紀之助翁胸像などを見学。
2016年1月7日から3日間、秋田県潟上市の天王、天王南、羽城の3中学校の1、2年生4名ずつ12名、教員らの計20名が都城市山田町を訪問(団長は天王中の舘岡和人校長)。
2016年2月4日から2日間、県教育委員会などの主催で、第30回秋田県教育研究発表会を潟上市の県総合教育センターで開催。
2016年3月19日、石川理紀之助を題材にした演劇「かけ板の音 -HOMAGE TO RICKY-」が潟上市昭和の羽城中学校視聴覚ホールで上演された。
2016年3月30日、文化庁【芸術による地域活性化・国際発信推進事業】の助成を得て、秋田市中心街エリアなかいちのにぎわい交流館多目的ホール(250席)を会場とする劇団わらび座によるミュージカル【新・リキノスケ、走る!】のロングラン公演が決定したとの制作発表記者会見が秋田商工会議所で行われた。上演は2016年11月6日~2017年2月26日、計125回の予定。実行委員会の構成は、秋田県、秋田市、秋田県教育委員会、秋田市教育委員会、秋田魁新報社、JA秋田中央会、秋田商工会議所の7者[28]。
2016年5月20日、秋田県最大の農業イベントである「第139回秋田県種苗交換会」が2016年10月29日(土)から11月4日(金)までの7日間、湯沢市で開催されることが決まった。湯沢市での開催は2007年以来9年ぶり通算12回目。石川理紀之助は湯沢市の偉人として、秋田県四老農(農業の賢人)の高橋正作と糸井茂助、理紀之助の和歌の師である後藤逸女の功績を顕彰している[29]。
2017年1月7日、小林忠通が、『秋田県民を救済した石川理紀之助翁の救荒事業』を発刊。
2017年2月19日、小林忠通が、『甲谷喜兵衛翁没後100年記念 横手市山内地区を救済した石川理紀之助翁の救荒事業 増補改訂版』を発刊。山内地区の住民に100冊配布された。
2017年4月29日、小林忠通が、『定本 石川理紀之助翁』を発刊。
2017年10月30日、石川理紀之助翁顕彰会が、『石川理紀之助翁ゆかりの碑マップ100』を発刊。
2018年4月21日、小林忠通が、『よくわかる石川理紀之助 その思想と絶筆』を発刊。
秋田市金足の「旧奈良家住宅」(秋田県立博物館の分館)前の道路際に、生誕の地を示す大きな石碑「百年碑 石川理紀之助誕生之地」が建っている。
秋田県潟上市昭和豊川山田字家の上64に潟上市郷土文化保存伝習館(石川理紀之助翁資料館)がある。近隣には、晩年の住居であった尚庵を中心に、茶畠文庫、備荒倉、梅廼舎、古人堂文庫、遺書文庫、三井文庫、石川会館などがある。また、山合いの草木谷に石川理紀之助が貧農生活を実践した山居跡があり、五時庵が復元されている。
潟上市郷土文化保存伝習館は、郷土の先覚者である石川理紀之助の数多くの遺著・遺稿・収集文書などの保存と公開を行い、次世代をになう人々の育成と地域文化の発展を目的として、1981年(昭和56年)7月に石川理紀之助翁遺跡地のなかに設置された。石川理紀之助翁遺跡地は、秋田県が石川ゆかりの建造物と著書・遺品などを保存して、石川の思想・生活・業績をそのままの姿で後世に伝えるために、1964年(昭和39年)4月16日に県史跡に指定したもので、潟上市昭和豊川山田字家の上と字市ノ坪の二か所からなっている。石川理紀之助翁遺跡地の敷地にはいくつかの建造物が現存しており、石川の思想と行動を明らかにするためにも、遺跡地の詳細を紹介する。
理紀之助は、明治20年43歳自作の【日拝板】に自らを12代と書き付けている。
川上富三は、『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る』134頁で、初代-石川大学、2代-大学、3代-大学(1617年、元和3年没)、消失して不明、九右衛門(1691年、元禄4年11月没)、長十郎(1697年、元禄10年没)、九右衛門(1740年、元文5年没)とした。
筑波大学助教授の佐藤常雄は、『日本農書全集 第63巻』451頁に次のように記している。
佐藤常雄は、理紀之助を13代と位置づけている。
先代の石川尚三が『石川理紀之助翁生誕150年記念誌』5頁に「曽祖父の生誕百五十年に想う-石川家十六代当主石川尚三」と題して、曽祖父理紀之助の決意と遺跡地のことを記している。従って、14代-老之助(1903年、明治36年没、理紀之助の次男)、15代-太朗(1956年、昭和31年没、老之助の長男)、16代-尚三(2003年、平成15年没、太朗の三男)、当代17代-紀行(理紀之助5代目、理紀之助の玄孫)となる。
石川は生涯にわたり、多くの名言や格言を残している。代表的なものが、1888年(明治21年、44歳)、井上馨農商務大臣の招請を受けて上京し、郷里の農業改革の実績を報告した際に披瀝した14ヶ条の信条、すなわち【経済のことば】である。この訓言は、農業や企業経営に携わる人たちのみならず、現代人全般に向けたメッセージとして語りつがれている。
その中でも【寝て居て人を起こす事勿れ】の訓言は、実践躬行、率先垂範を意味し、石川の深いあたたかな人間愛から生まれてきたもので、石川の遺訓として著名である。なお、石川の自筆は必ず【寐て居て】で、【寝て居て】ではない。理由は、漢文の同訓異字において、【寐て居て】は<寝入っていて>、【寝て居て】は<寝床で横になっていて>を示すからである。
【経済のことば 14ヶ条】
【石川理紀之助百歌集】は、種苗交換会の育ての親である秋田県の農事功労者として、さらには歌人として名高い石川理紀之助が、最晩年の大正4年に自身の詠草25万~30万首の中から100首を自選し、色紙大の紙に一首ずつ百首書いたものである。巻頭には山田石川家の写真と、石川の晩年の写真を貼り付け、仏教哲学者の井上円了の漢詩の「其妙入神、其技驚鬼」の讃を添え、俳人の瀬川露城の俳句、画家の渡辺直堂の絵が加えられている。折りたたみ手本形式で二冊にわけて表具してあり、まことに立派なものである。
【石川理紀之助百歌集】は、和歌の門人の菊池長三郎に揮毫した百教訓歌集である。山形県生まれの菊池長三郎は、壮年の頃、秋田県北秋田郡阿仁合町に居住し、写真業のかたわら石川に和歌を学んだ。菊池長三郎は昭和初年頃に世を去り、百歌集帖は女婿某の譲られる所となった。その後、昭和12年初秋に隣県から秋田県立図書館にもたらされた百歌集帖をめぐり、譲渡の交渉が始まった。これを県内に留め置けないならば、石川に対し全く申し訳のたたないことであったが、当時としては非常に高価だったため、初めはむなしく手をこまねくほかなかったようである。幸い、昭和6年~9年(第54回~第57回)種苗交換会の会頭で前秋田県農会長であり、秋田県仙北郡内小友村長でもあった佐藤維一郎の多大の厚志により、昭和13年4月秋田県立図書館に寄贈され、永久保存される運びとなった。
昭和20年6月27日には、第二次世界大戦の空襲による焼失を防ぐため、その3年前の昭和17年に設置されていた石川文庫(具体的には大正6年に建造されていた遺書文庫)への疎開が行われた。
原本の外題(げだい)は【石川理記之助百歌集】で、【紀】が【記】になっている。 くずし字の原文は、小林忠通『秋田県立図書館所蔵 日本人の心 定本 石川理紀之助百歌集 増補改訂版』(秋田県立図書館所蔵、横手市立横手図書館所蔵)に記されている。
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