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相原 和友(あいはら かずとも、1989年10月27日 - )は、宮城県仙台市出身[1]の元プロ野球選手(投手)。
小学校3年[1]または4年[2]の時に野球を始め、仙台市立広瀬中学校では軟式野球部に所属していた[1]。高校は東陵高等学校に進学し、1年春からベンチ入り選手として名を連ね[2]、3年春にはチームのエースとして宮城県大会で優勝した[1]。
大学は東北福祉大学に進学し、1年春からベンチ入り選手として名を連ねていた[1]。4年時の全日本大学野球選手権大会の2回戦の愛知学院大学戦では、9回無死満塁のピンチを抑えることができず逆転された[3]。その後、明治神宮野球大会の準々決勝の大阪体育大学戦では、8回1死満塁のピンチを抑えると、続く9回も三者凡退に抑え、チームの勝利に貢献した[4]。東北福祉大学では、リーグ戦通算3勝の成績を残した[1]。大学の野球部には同期に中根佑二、1学年先輩に阿部俊人、石山泰稚がいる。
大学卒業後は七十七銀行に加入[1]。同年の第83回都市対抗野球2次予選東北大会では、エース阿部博文が不在の中、相原は6月6日の敗者復活戦で148球を投げ、翌々日の8日に行われた第2代表決定戦の日本製紙石巻戦では、9回1失点で完投勝利を挙げ敢闘賞を受賞し、チームは6年連続で都市対抗への出場を決めた[5]。第83回都市対抗野球大会では、初戦のNTT西日本戦で7回1/3を2失点に抑えたが、チームは敗退した[6]。同年の第38回社会人野球日本選手権大会では、2回戦のバイタルネット戦で9回を投げ被安打10・先頭打者の出塁5という内容であったが、1失点に抑えチームは勝利した[7]。
2年目は、6月に東北楽天ゴールデンイーグルスとの試合に登板し、6回を1失点に抑えた[2]。同年の第84回都市対抗野球大会には、東北第1代表の日本製紙石巻の補強選手として出場[8]。7月17日に行われた1回戦の信越硬式野球クラブ戦では、日本製紙石巻のエース相沢晋[注釈 1]が2回3失点でKOされたが[10]、相原はその後の7回を被安打4・無失点に抑え、日本製紙石巻は勝利を収めた[8][11]。第39回社会人野球日本選手権大会では、1回戦の四国銀行戦で7回2失点で勝利し、自身全国大会3勝目(社会人時代のみ)を挙げた[12]。2回戦の三菱重工神戸戦では、2回途中5失点でKOされた[13]。
同年10月24日に行われたドラフト会議では、楽天から7位で指名された[14]。相原は指名後に「地元球団で応援していた楽天に行きたいと思っていた」とコメントした[14]。11月19日に契約交渉を行い、契約金2500万円、年俸720万円で合意した[15]。背番号は53[16]。東北福祉大の先輩で[2]、東陵高校時代から約8年間相原を視察してきた楽天スカウトの上岡良一[17]からは、即戦力としての期待をかけられている[2]。
2014年4月19日に、入団後初めての一軍登録[18]。この年の新人8投手では、開幕から一軍に帯同している西宮悠介、松井裕樹に続く3人目の登録であった。同月25日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で一軍デビュー[19]。この年は最終的には17試合に登板し、防御率は2.79を記録した。 2015年は公式戦登板は1試合のみ、二軍では23試合に登板、防御率4.82だった。
2016年からサイドスローに転向した[20]。一軍では2試合登板、防御率は45.00で、二軍では24試合登板で防御率3.92であった。このシーズン終了後の10月24日に、球団から戦力外通告を受けた[21]。12月2日、自由契約公示された[22]。
変化球の球種が多いことが特徴で[6]、スライダー・カーブ・シンカー・チェンジアップ・カットボールを持ち球とする[1]技巧派左腕[23]。また、各球種の球速差があまりないことも特徴[1]。ストレートの最速は東北福祉大学時代に記録した141km/hで[12]、通常は130km/h台である[1]。
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