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日本の考古学者 ウィキペディアから
田辺昭三(たなべ しょうぞう、1933年(昭和8年)8月8日[1] - 2006年(平成18年)2月20日[1])は、日本の考古学者。須恵器の研究や、日本における水中考古学の研究に先鞭をつけたことで知られる[要出典]。奈良大学助教授となり、後に同教授に昇格。京都市埋蔵文化財研究所調査部長、京都芸術短期大学教授・京都造形芸術大学教授、神戸山手大学教授。
1933年、静岡県小笠郡菊川町(現菊川市)で生まれた。中学生だった1948年、登呂遺跡の発掘調査に参加。同年、菊川市の白岩遺跡の発掘調査も手伝った。この際東洋大学教授の和島誠一に出会い、強い影響を受けた[2]。これらの経験を通して、早くから考古学に傾倒していった。1952年、静岡県立掛川西高等学校を卒業。立命館大学に進学し、同大学大学院を修了。
卒業後は、平安高等学校教諭についた。
1973年2月、「平安京調査会」の発足に伴い、代表に就任した。同会は1976年11月、六勝寺研究会ならびに鳥羽離宮跡調査研究所と統合して京都市埋蔵文化財研究所となった組織であり、同所調査部長時代には、平安京跡の発掘調査を主導。また、大阪府堺市南部の陶邑窯跡群(すえむらようせきぐん)の発掘を行った。このとき出土した須恵器の編年史をまとめた研究(『須恵器大成』角川書店)が評価され、1983年には日本学士院賞を受賞した。森浩一に続いて田辺が構築した陶邑窯の須恵器編年は、「田辺編年」として知られ、古墳時代~奈良時代遺跡の年代決定の指標となり、日本考古学史に多大な影響を残した[3]。1987年、学位論文『須恵器大成』を立命館大学に提出して文学博士号を取得[4]。
1988年、広島県の宇治島南方で沈没船が発見された。この船は、1867年(慶應3年)に坂本龍馬らが乗船し、紀州藩の明光丸と衝突して沈没した「いろは丸」(「いろは丸展示館」の項を参照)ではないかとの声が挙がった。それを受けて田辺が所長を務める水中考古学研究所は、1988年と翌1989年の2回にわたって調査を行い、この船がいろは丸である可能性が高いとの結論を出した。
京都造形芸術大学教授時代の1995年および1996年には、中国の尼雅遺跡群の研究にも参加した。2001年初頭、劇症肝炎に罹患するが快復。
2004年3月から4月にかけて、掛川市に蔵書約20,000冊を寄贈[5]。これを受け、掛川市立中央図書館内に「田辺文庫」が設けられた。2006年2月20日午後11時45分、肝不全のため京都市北区の病院で死去。72歳。
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