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豊臣秀吉の伝記 ウィキペディアから
『太閤記』(たいこうき)は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある[1]。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という[2]。
秀吉は生前、御伽衆大村由己に命じて天正年間の功業を描いた『天正記』を著させたが、これが最も古い秀吉の一代記であると考えられている[3]。同様に秀吉に仕えた太田牛一も秀吉の功業を覚書風に記した『太閤軍記』を著した[3]。『太閤軍記』そのものは残っていないが、抄本である『大かうさまくんきのうち(太閤さま軍記のうち)』が現存している[3]。これら先行する諸本を元に、儒学者・小瀬甫庵は『太閤記』を著した。物語風であったこともあり、講談等の語り物の題材にされたことで多くの人々に親しまれ、後世の秀吉像を形作る源泉となった[3]。江戸時代中期には講談を元にした読本『絵本太閤記』が流行し、歌舞伎や浄瑠璃でそれを元にした『絵本太功記』を始めとする『太閤記物』が庶民に親しまれた。
儒学者小瀬甫庵によって書かれたもので、初版は寛永3年(1626年)、全20巻。各種の『太閤記』のうち最も有名なものがこれである。作者の名をとって『甫庵太閤記』(ほあん たいこうき)ともいう。江戸時代に幾度か発禁にされたが、以降も版を重ねている。
秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観やそれに基づく史料の解釈、改変も指摘されている。加賀藩で俸禄を給っている関係からか、賤ヶ岳の戦いにおける前田利家の撤退について名前が記載されていなかったり、前後の関係を無視して唐突に前田利家の活躍が挿入されている箇所も見られる[注釈 1]。
江戸時代の芸能における太閤記物は、享保年間の近松門左衛門の『本朝三国志』、竹田出雲の『出世握虎稚物語』等があった[6]。天明・寛政年間には浄瑠璃で『太閤記物』の一大ブームが起こった[7]。浄瑠璃や歌舞伎では「太閤」のかわりに「大功」[8]や「太功」が使われ、これらの戯曲を元にした『絵本武勇大功記』などの読本等でも用いられている[8]。
大坂では『絵本太功記』は特に人気があり、江戸時代を通じての上演回数は『妹背山婦女庭訓』と『仮名手本忠臣蔵』に次ぐものであった[9]。
歌舞伎では秀吉や太閤記を題材とするものは「太閤記の世界」と呼び、木下藤吉郎時代のものは特に「出世奴(しゅっせやっこ)の世界」と呼ばれる[10]。ただし『絵本太功記』は太閤記物であるが主役は真柴久吉(秀吉)ではなく武智光秀(明智光秀)である。太閤記物の歌舞伎では『祇園祭礼信仰記』『時桔梗出世請状』などが知られる。
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