猪苗代兼載

戦国時代の連歌師 ウィキペディアから

猪苗代 兼載(いなわしろ けんさい、享徳元年(1452年) - 永正7年6月6日1510年7月11日[1])は、戦国時代連歌師。初め宗春[1]と称した。別号は相園坊・耕閑軒[2][3]。兼栽と記されることもある[4][5]心敬に師事し、宗祇とも交流して、宗祇とともに連歌の最盛期を作り出した。

生涯

享徳元年、陸奥国(後の岩代国会津に生まれる。父は猪苗代盛実とされる[1][3]景徐周麟『耕閑軒記』などによる[6])。叔父に連歌師・歌人の広幢がおり、兼載の後継者となる兼純は広幢の子という[7]

6歳の折に、会津黒川(現在の会津若松市)の自在院(真言宗)に出家[6]、興俊と称する[5]文明元年(1469年)、関東下向中の連歌師心敬に師事する[3]

その後京都に上り、中央連歌壇で活躍[3]延徳元年(1489年[1][3]、宗祇の後を受け[3]、38歳で連歌界で最高の名誉職とされる北野連歌会所奉行となる[1]周防国山口大内政弘の後援を得て、宗祇の『新撰菟玖波集』の編纂にも参加した[1]

阿波、北陸などを旅し、文亀元年(1501年)、50歳の時に関東に下向[1]。岩城や会津、古河などを巡って連歌や古典講義を行った。下総国古河で没した[1]

墓は満福寺栃木県野木町)にある。連歌の家門としての猪苗代家の子孫は伊達家の連歌師となった[3]

人物と作品

連歌を心敬に、和歌二条派尭恵に学んだ[2]

句集に『園塵(そののちり)』『若草山』、連歌論書に『心敬僧都庭訓』『梅薫抄』『兼載雑談』『景感道』、独吟『聖廟法楽千句』などの作がある[1][8][9]

宗祇との交流は長いが、『新撰菟玖波集』の編纂に参加中、細川成之の句をめぐって確執も生じるなど[1]、対立的な立場であった[10]。文亀2年(1502年)の宗祇の死の際には、箱根に駆けつけて長歌を詠んだ[3]

備考

  • 猪苗代地方に伝わる話によれば、出生地は小平潟村(耶麻郡猪苗代町大字中小松)という[6]。兼載の母が小平潟天満宮に願かけをして兼載が生まれたといい、多くの神童伝説が伝わっている[6]
  • 野口英世は兼載の血筋であるという説がある。英世の父である佐代助の生家は小平潟村の小桧山家であるが、この家が兼載の同族であるという[11]。小平潟村には、英世は実は小平潟村の生まれ(母のシカが奉公に来ていたという)であり、兼載の生まれ変わりであるとする話が伝えられているという[12]

脚注

関連項目

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