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特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ、英語: Special Higher Police, SHP[1]は、日本秘密警察。国事警察として発足した「高等警察」から分離し、国体護持のために無政府主義者共産主義者社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることが目的であった[2][3]内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県[注釈 1]に設置されたが、その後、1928年昭和3年)に全国一律に未設置県にも設置された[4]。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言い、構成員を指しても言う[5]第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により廃止された。

警視庁特別高等部検閲課による検閲事務の様子(1938年(昭和13年))
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概要

特別高等警察は、高等警察の機能を持つ組織である。高等警察とは、「国家組織の根本を危うくする行為を除去するための警察作用」と定義される[3]。いわゆる政治警察や思想警察のことである。戦前の日本では、治安警察法出版法新聞紙法に基づいて、この種の警察作用が行われた。特別高等警察では、このうち特に共産主義運動、社会主義運動、労働運動、農民運動などの左翼の政治運動や、右翼の国家主義運動や不敬罪を徹底的に取り締まった[3]。なんといっても暴力行為などを用いた極端な取り締まりが一般大衆に恐れられた。

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沿革

1910年明治43年)、明治天皇暗殺を計画したとして、大逆罪の容疑で多くの共産主義者、社会主義者、無政府主義者が逮捕処刑された(幸徳事件(大逆事件))。これを受け、翌1911年(明治44年)に、それまで高等警察事務の一部であった危険思想取締りのため、内務省が枢要地に特に専任警部を配置することを勅令で決定し、同年8月21日に警視庁の官房内に従来より存在した政治運動対象の高等課が分課されて、社会運動対象の特別高等課が設置された。

同課の設置により、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれ、内務省と一体となって社会運動(同盟罷業・社会主義運動・共産主義運動・諜報活動・爆発物・印刷物等)の取締りにあたった。これにはフランス秘密警察の影響がみられる。特別高等警察を指揮した内務官僚には安倍源基町村金五町村信孝の父)などがいる。

1911年には大阪府にも警察部長直属の「高等課別室」が設置され、翌1912年に特別高等課に昇格した。

1913年の警視庁官制の改正によって、特別高等課は、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課として位置づけられた。

1922年日本共産党が結成されると、1922年から1926年にかけて、北海道神奈川長野愛知京都兵庫山口福岡長崎など主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、1925年には治安維持法が制定され取締まりの法的根拠が整備された。

三・一五事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、また、主な警察署には「特別高等係」が配置され、全国的な組織網が確立された。1932年6月に警視庁の特別高等課は「特別高等警察部」に昇格した。

1932年岩田義道1933年には小林多喜二に過酷な尋問を行なって死亡させるなど、当初は共産主義者や共産党員を取締りの対象としているが、後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や類似宗教(当時の政府用語で、新宗教をこう呼んだ。)など、反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。第二次世界大戦中には「鵜の目鷹の目」の監視網を張り巡らせたほか、横浜事件俳句弾圧事件など言論弾圧といわれる事件をひきおこした。

1941年、治安維持法の改正で予防拘禁制度が発足。これに対応するため警視庁の特高第一課の例では警部補16人、巡査部長16人、巡査9人の大幅増員。他に特高第二課4人、検閲課も4人が増員されている[6]

1944年に大阪府警察局に「治安部」が設置され、特別高等課も配置された。

敗戦後は、進駐軍の不法行為の監視を行った(特殊慰安施設協会参照)。当初、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた[7]。「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1,900万円が予算要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である[8]

日本国政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを狙っていた。1945年(昭和20年)10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否している[8]

1945年10月4日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により、治安維持法と共に廃止された。しかし、内務省上層部は、日本共産党などの反政府的動静に対処するためにも、全国の特高警察網を温存させる必要があると考えており、1945年12月19日、特高警察に「代わるべき組織」として、内務省警保局に公安課が設置され、各都道府県警察部にも警備課[注釈 2]が設置された(公安警察)。

GHQによる人権指令により、特別高等警察に在籍していた官僚警察官は、公職追放の対象になったものの、戦争犯罪人として指定され、問責・処罰の対象となった者は、内務省・特高警察関係者には1人もいなかった。1万500人の特高警察関係者の中で、内務大臣、警保局長、保安・外事・検閲各課長および各府県の警察部長級51人、特高課長・外事課長55人、警部168人、警部補1,000人、巡査部長1,587人、巡査2,127人の合計4,990人が休職となり、その後「依願退職」の形で罷免となった。ただし、公職追放G項該当追放者はわずかに319人、一斉罷免者の数はさらに少ない86人でしかなかった。茨城県警察部土浦警察署署長であった池田博彦は、特高警察関係者の半数近くが罷免されたことによって、警察の情報収集能力が落ちたことを嘆いていた。

1946年(昭和21年)1月3日、アメリカ人ジャーナリストマーク・ゲインが、山梨県警察部大月警察署の署長に対して、「特高警察が解体されて、破壊分子を監視する機関がなくなったのはまことに困ったことではないか」と質問したところ、署長は「それはたいしたことではない、なぜなら特高警察の仕事は県庁の公安課の司法官の手に引き継がれたから」と説明している。署長は続けて「私もちょうど県庁所在地での会議に出席して帰ったばかりです。その会議は12月28日、29日の2日間開かれて、いま公安課にいるもとの特高係長がわれわれの仕事について、いろいろ新しい指示を与えました。とくに今度の選挙についての」と語っている。このように、特高警察の業務は、公安警察に継承されていた[9]

GHQ参謀第2部(G2)は、特高警察関係者の中から、公職追放された者を多く雇用して、元特高警察官の知識や経験を情報収集や謀略活動に利用しており[9]、内務省調査局と、その後身である法務庁特別審査局に入局させて、レッドパージの先鋒としての役割を担わせていた。特別審査局の調査第三課は、特高警察の元締めであった内務省警保局保安課[注釈 3]と編成が酷似しており、団体等規正令第11条により解散処分となった日本共産党や全労連の動向を監視していた[10]。G2は公安警察とも密接な関係にあり、日本の各地方に置かれたG2管下の対敵諜報部隊(CIC)は、各都道府県警察部の警備課(公安課)と緊密な連絡を取り合って諜報活動に従事していた。後にG2は、中央集権的な警察機構の存続を望む内務省警保局を支持し、警察機構の分権化・細分化を進めるGHQ民政局(GS)と鋭く対立している[9]

その後、GHQの占領政策の転換に伴う公職追放者の処分解除(逆コース)により、1951年9月以降、自治省警察庁警備局)・警視庁公安部公安調査庁厚生省労働省防衛庁宮内庁文部省日本育英会住宅金融公庫年金福祉事業団日本住宅公団首都高速道路公団阪神高速道路公団日本観光協会などの上級幹部職に復職していった[11]

また、公職復帰後に知事副知事を足掛かりに、国会議員となり、その後、自治大臣国家公安委員会委員長石原幹市郎山崎巌町村金五)や、文部大臣奥野誠亮)、法務大臣古井喜実奥野誠亮唐沢俊樹)となる者もいた。

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全国組織としての陣容

特高警察の総元締めである内務省警保局保安課の課長は、課長級では唯一の勅任官であり、重要な役職であった。ベルリンロンドンに海外駐在官を置いていたほか、新たに警務官制度が新設され、北海道・東北関東中部など、全国5地区の警務官に各府警の警察部長や特高課長を指揮できる権限を与えていた[12]

内務省警保局図書課は、新聞・出版物の検閲と外国語出版物の調査を行い、検閲制度の統一や内外出版物の論調の調査研究も行っていた[12]

特高警察は二層構造になっており、内務省の保安課長や事務官のポストを占めるのは、高等文官試験を合格した内務省のエリートであった。彼らは入省後5年程で小規模県の特高課長となり、その後、2~3年程度で特高課長に就任し、入省から10年程度で本省保安課の事務官クラスに昇進する。特高課長や外事課長は内務省の「指定課長」であり、内務省警保局保安課長が任命権限を握っていた[13]

上記の内務官僚のエリートとは対極的に、特高警察の実戦部隊である各府警特高課や各警察署特高係には多数の専任警察官がいた。これら〝たたき上げ組〟が実務の中心を担っており、その任務の特殊性から長期にわたることが多かった。代表的な人物として1911年に警視庁特高課労働係に配属された毛利基や、1929年に警視庁特高課特高係に配属された宮下弘がおり、2人とも敗戦後の辞職にいたるまで特高警察に在職していた[14]

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関係した事件

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組織図

下図の通り、特別高等警察は、各県の警察部長を経由して地方長官(知事)の指揮を受ける、一般の警察と異なり、内務省から直接指揮を受ける、特殊な警察組織であった。

1932年(昭和7年)の「部昇格」以降のもの
内務大臣
警保局
保安課検閲課
(図書課)
外事課
警視庁
特高部
道府県
警察部
特高課
海外派遣
事務官
特高一課特高二課労働課検閲課外事課内鮮課調停課
各警察署
特高係

※「特別高等」を「特高」と略している。警視庁特高部は「特別高等警察部」を「特高部」と略している。

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逸話

「票読み一つ誤らない」と恐れられた緻密さを持ち、ことに戦中は「銭湯冗談も筒抜けになる」とまで言われた[要出典]。戦後、日本共産党が機関紙『赤旗』(せっき)を復刻しようとしたが、26号までは散逸してしまったため、やむなく特別高等警察資料第3号[15]に全文収録されていたものを使った[16]

第二次世界大戦前や戦中は「特高の持つ警察手帳は赤色である」という噂があったが、実際は一般の警察官と同様に黒色であった。なお、過去に実際に赤色系の手帳を持っていた日本の公務員は、麻薬取締官と麻薬取締員で、これは戦前も内務省衛生局の下にあり、色も同様であった。

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戦前の批判

  • 1928年(昭和3年)7月23日 - 東京日日新聞は同日付の朝刊社説の中で特別高等警察を批判。東北某県でマルクス全集購入者をリストアップした事例を取り上げ、マルキシズムの是非はともかく、法により公刊が認められた書物の購入者を脅かすごとき態度に出ることは不穏当の沙汰であるとした。また、屋上屋を架すると非難された特高課が、仕事なき手持ち無沙汰のあまり強いて仕事を作らんとする属僚気質にあることも言及している[17]。 
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特高警察が登場する作品

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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