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コックス事件(コックスじけん)は、1940年7月27日に、日本各地で在留英国人11人が憲兵隊に軍機保護法違反容疑で一斉に検挙され、7月29日にそのうちの1人でロイター通信東京支局長のM.J.コックスが東京憲兵隊の取り調べ中に憲兵司令部の建物から飛び降り、死亡した事件。同日、日本の外務省が英国人の逮捕とコックスの死亡を発表し、死因を自殺と推定した。
同月末までに事件に関連して英国人計14人が逮捕され、死亡したコックスのほか、10人には同年10月初に刑罰が言い渡され(うち7人は7月末までに解放)、3人は10月時点で取調中として引き続き拘留された。同年8月初に英国は報復としてロンドン・香港・シンガポール・ヤンゴンで日本人計10人を逮捕・拘束し、その後釈放・国外追放処分とした。
事件は日本国内で「憲兵隊による英国人スパイ網の弾圧事件」として報道され、陸軍の親独伊派が推進していた国民の排英・防諜意識高揚を助長する結果となった。英米の新聞は英国人の一斉検挙を、ドイツによる英国攻撃を背景とした日本国内の親独伊派による親英米派への攻撃、英国への挑発行為として伝えた[1]。
1940年7月27日に、日本国内の5つの都市で憲兵隊が在留英国人11人を逮捕した[2][3]。
当初、事件の報道は規制されており、東京支局長であるコックスを逮捕されたロイター通信が、コックスが「軍事上の理由」で逮捕されたことを海外に伝えた[6][7]。28日午後には、クレイギー駐日英国大使と松岡洋右外務大臣との会談の中で英国人の逮捕について話し合われたが、覚書には英国人の逮捕に関する事項は記載されなかった[6]。[17]
1940年7月29日、日本の外務省は、陸軍大臣と司法大臣にかわり「27日に憲兵隊が日本全国に広がる英国のスパイ網摘発の第1段階として英国人11人を逮捕した」と発表した[2]。
同日、同盟通信が、東京で憲兵隊の取り調べを受けていたコックスが憲兵司令部2階の窓から飛び降り、その際の受傷が原因で1時間45分後に死亡したこと、憲兵隊がコックスを制止しようとしたが失敗したこと、懲罰を免れないと考えたことがコックスの行動に影響したとみられることを伝えた[18]。
See Reuters re rents. See Cowley re deeds insurance. See HONG re balance shares in London.I know what is best always. my only love.
I have been well treated but there is no doubt how matters are going on.
が発表された[11]。
当時東京憲兵隊の特高課長だった大谷敬二郎は、戦後の回想の中で、コックスの死について下記のように記している[19]。
ロイター通信は、29日付けでコックスの死を報じ、独自の情報として、コックスには外部からの食料や書籍の差入れが許可されており、入浴の希望は拒否されていたが、憲兵隊での扱いは良かった、と伝えた[2]。
7月31日に東京の聖アンデレ教会で行われたコックスの葬儀には、各国の大使館関係者や同盟通信の古野社長をはじめ報道関係者ら約200人が参列した[27][28]。
同日夕方、コックスの葬儀で棺側葬送者を務めたAP通信の東京支局長で米国人のG.R.モーリン(Morin)が「コックスの死に関連して虚偽・無根拠なニュースを報道した」として憲兵隊の「尋問」を受け、同日深夜に「謝罪」して解放された[29][30]。
7月30日の日本政府の閣議では、東條英機陸軍大臣からコックスの死と「英国の日本における諜報網」について詳しい報告がなされ、閣議後、陸軍大臣と外務大臣・海軍大臣の間で「懸案の外交問題について」意見が交わされた後、松岡外相が近衛首相と会って「英国スパイ事件」に対してどのような外交手段をとり得るかを話し合った[31]。
同じ30日には日本の警察が、人数は公表せずにスパイ容疑で在留外国人を逮捕したことを発表し、更に2人の英国人:神戸でクリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉の経営者H.C.W.プライス(Price)[32]、長崎で長崎高等商業学校の講師W.P.C. de トラフォード(Trafford)[33]が逮捕されていたことが明らかになった[31]。
7月30日に、クレイギー大使から報告を受けた英外務省(外務大臣・ハリファックス子爵)は、「コックスの『自殺』はスパイ活動への関与を認めた結果」だとした日本政府の見解に反発し、日本政府による「全国的な英国のスパイ網」の主張には根拠がなく、逮捕されたのは政治活動と関わりのない民間人であり、一斉逮捕は日本国内の軍国主義者の宣伝・政治活動の一環として行われた政治的な挑発だと表明[31]、翌日クレイギーを通じて日本政府に抗議し、自らも駐英日本大使を呼んで抗議した[34]。
8月1日に英外務省は報復措置として英帝国内の異なる場所にいる10人の日本人の逮捕を提案し、内閣の承認を取り付けると、翌日以降各地で日本人が逮捕・拘束された[35]。
英内閣は外交官や軍人など「重要な地位」にある人物の逮捕は許可しないよう注意を促していたため、外交官や軍人の逮捕は避けられていた[44]。
8月5日までに、日本の憲兵隊に逮捕された英国人14人のうち、コックスを除いて7人が解放され、拘留中の英国人は6人となった[45][46]。
7日にクレイギー駐日英国大使は松岡外相と会談して、日本における英国人の逮捕と、英国における日本人の逮捕について意見交換した[48]。松岡は後刻、内閣に英国大使から連絡を受けた内容を報告した[48]。
8月5日に報復措置の結果が英本国の内閣に報告され、英外務省は、日本で拘置されている英国人が7人となったため、逮捕した日本人の一部を解放してよい、との見解を示した[35]。
1940年10月1日に、日本の司法省は、7月27日のスパイ容疑者検挙事件に関連して日本で拘束された在留英国人15人のうち、10人が起訴され、うち7人が軍機保護法違反などにより有罪となり、ほかに5人を取り調べ中と発表した[56]。このほかに日本人1人が在留英国人を支援したとして起訴され、日本人女性1人と日本人男性数被人が取調べのため拘束された[56]。
同月2日、駐日英国大使館は、7人の英国人の刑罰が確定したと発表し、J.H.ジェームズは裁判なしで罰金500円、E.W.ジェームズとマクノートンおよびドラモンドは裁判なしで罰金200円、マイケル・リンガーは4年間の執行猶予付の禁固14ヵ月[57]、ヴァーニャ・リンガーは罰金150円と4年間の執行猶予付の禁固18ヵ月[58]、T.トラフォードは無罪となった[59]。
日本国内では、1939年の平沼内閣の五相会議以来、日・独・伊の枢軸を強化しようとする板垣陸相ら枢軸派・親独伊派と重臣・宮中・海軍・三菱に代表される親英派が対立し、陸軍は親英派を現状維持派だと批判して、英米の思想文化・自由主義を追放し、排英運動・国内革新運動を進めて戦時体制を強化することを主張していた[62]。
1940年6月のフランスの陥落直後に、日本政府はドイツに、ドイツとイタリアとの政治的関係強化の意向を伝え[63]、ドイツはこれに対して、日本に英国との協調関係の放棄を提案していた[35]。ドイツの狙いは、日本に極東で英米との戦争を起こさせ、米国が欧州で英国を支援できないようにすることにあると見られていた[35]。
英国人10余人の一斉逮捕は、陸軍など日本国内の反英派・過激派勢力が、ドイツの対英政策を受け入れ、対独戦による英国の劣勢[64]に乗じて国内の親英派を攻撃し、英国を挑発するために引き起こした事件とみられていた[35][65][47][66]。
リンガー兄弟が逮捕された下関・長崎では、憲兵隊が瓜生商会の日本人従業員全員を尋問のために拘留し、調査のために事務記録の多くを没収、また日本人従業員全員が同商会との関係を絶つように忠告された[67]。
大谷 (1957, pp. 78–80)は、コックス事件による当初の検挙者数を東京憲兵隊2人、大阪憲兵隊1人の計3人とした上で、コックスらを逮捕した理由について、1940年1月頃から特高課外事班が駐日外国人10数名をスパイ容疑者として偵諜しており、このうち英国人2人について軍事機密事項をスパイしている容疑が固まったために検挙したのであり、特に排英のために英国人を検挙したわけではなく、結果として国内の親独伊派の排英・防諜意識高揚を助長することになっただけだ、としている。[68]
当時の日本国内では事件は「東京憲兵隊が英国の諜報網を弾圧した」として新聞で大きく取り上げられ、国民の防諜思想を喚起し、英国人スパイの国内活動を宣伝することになり、陸軍が推進していた反英・防諜思想の普及に助力する結果となった[69][70]。7月29日の発表時に、陸軍省の報道官は、日本国民に対して、スパイ活動に惑わされないようにするため、国家や軍の機密事項を話さないようにと呼びかけた[11]。
事件当時の『長崎日日新聞』は、スパイ事件を摘発した警察当局を賞賛し、英国による日本人拘留に怒りを表し、読者に外国人に注意するよう呼びかけていた[71]。
1940年8月初に行われた、在日英国人の一斉検挙に対する英国の報復措置に関して、日本の新聞各紙は、駐英大使の召還、英国との国交断絶など、強硬手段に出るべきだとの論調で伝えた[72][73][74]。
事件後の1940年8月上旬には、日本各地で英国の日本人逮捕に抗議し、日本政府に強硬な対抗措置を求める大衆集会が開かれた[75]。
英国の新聞の中には、日本の行動に対して強い論調で自殺とされたコックスの死について徹底した調査を主張し、ビルマの援蒋ルートの再開などの報復措置を提案する記事もあった[31]。
大谷 (1957, pp. 93–94)によると、「コックス夫人が『夫が殺された』と大声でわめいていた」ことから英米のメディアは「コックスは憲兵隊によって殺害された」との論調で事件を報道し、戦後進駐軍が憲兵司令部を接収した際にも「ここでかつてジェームズ・コックスが殺害された」旨の言及があった。
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