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篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)は、戦前日本の報道記者・スパイ、日本軍占領下シンガポールの軍政幹部、戦後日本の実業家、著作家。[1]
「抗日活動に関わっていない」とする証明書を大量に発行することにより、日本軍の憲兵隊による監視を逃れ命を救われた人々が多数存在することから、「日本のシンドラー」と呼ばれる[34]。
篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め[31][35]、自著の中でも同趣旨の叙述をしている[36]。また、河村の遺著にも篠崎が河村と横田大佐のために人格証言をしたことが記されている[37]。
また篠崎は自著の中で、華僑協会は華僑の助命を促すために自身が設立した団体で、同協会は華僑強制献金を推進した団体と思われているが当初は性格が異なり、自身は強制献金には関与していなかった、としているが[25]、原 (1987, pp. 90–93)は、華僑協会はシンガポールでの設立以前にマレー半島の他の都市でも設立されており、また篠崎の著書では協会が強制献金を推進した時期が歪曲されていて、篠崎が協会に関与していた協会の設立当初から協会は強制献金を推進していたとして、篠崎を批判している。
篠崎のスパイ事件は戦前のシンガポールを震撼させ[38]、篠崎が戦前日本のスパイで、日本の占領期間中に軍政幹部となった人物であることは当時のシンガポールではよく知られていた[39]。占領期間当時の篠崎の人物について、住民と接する際の物腰は柔らかく、また交際範囲も広く、誰にでも信頼感を抱かせることのできる「専門家」だったとの評がある[39]。
1940年のスパイ事件の際に篠崎を逮捕した当時の海峡植民地警察アラン・ブレード特高科長は、事件の30年後の所感として、日本軍占領時期に篠崎はシンガポールの地域共同体を助けるために「大変純粋に努力した」と認めることができるように感じていたが、また篠崎の戦前のスパイ活動は重大事件だったと確信し続けてもいた[26]。
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