日本のシンドラー
「抗日活動に関わっていない」とする証明書を大量に発行することにより、日本軍の憲兵隊による監視を逃れ命を救われた人々が多数存在することから、「日本のシンドラー」と呼ばれる[34]。
華僑の保護
篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め、自著の中でも同趣旨の叙述をしている。また、河村の遺著にも篠崎が河村と横田大佐のために人格証言をしたことが記されている[37]。
また篠崎は自著の中で、華僑協会は華僑の助命を促すために自身が設立した団体で、同協会は華僑強制献金を推進した団体と思われているが当初は性格が異なり、自身は強制献金には関与していなかった、としているが、原 (1987, pp. 90–93)は、華僑協会はシンガポールでの設立以前にマレー半島の他の都市でも設立されており、また篠崎の著書では協会が強制献金を推進した時期が歪曲されていて、篠崎が協会に関与していた協会の設立当初から協会は強制献金を推進していたとして、篠崎を批判している。
スパイの大物
篠崎のスパイ事件は戦前のシンガポールを震撼させ、篠崎が戦前日本のスパイで、日本の占領期間中に軍政幹部となった人物であることは当時のシンガポールではよく知られていた。占領期間当時の篠崎の人物について、住民と接する際の物腰は柔らかく、また交際範囲も広く、誰にでも信頼感を抱かせることのできる「専門家」だったとの評がある。
1940年のスパイ事件の際に篠崎を逮捕した当時の海峡植民地警察アラン・ブレード特高科長は、事件の30年後の所感として、日本軍占領時期に篠崎はシンガポールの地域共同体を助けるために「大変純粋に努力した」と認めることができるように感じていたが、また篠崎の戦前のスパイ活動は重大事件だったと確信し続けてもいた。
エピソード
- 日本軍占領初期に英字紙『昭南タイムス』の編集長をしていた井伏鱒二は、戦前から篠崎と面識のあった同紙の記者たちは、戦前の篠崎は酒場などで顔を合わせるとにこにこしてビールを注ぎ、酒場から出るときには肩を組んでくれたが、昭南特別市政庁幹部となってからは、市の布告を新聞社へ持ち込むときに会っても硬い表情をして通り過ぎると話していた、としている。
- コーナー (1982, p. 101-103)によると、1942年4月頃、コーナーが昭南博物館の館長となった田中舘秀三の下で(敵性外国人として収容所に送られることなく)博物館の管理にあたっていたところ、田中館の私設秘書・家政婦として働いていた中立国・スイスのアルベンツ領事夫人の密告を受けて篠崎がコーナーを逮捕しに来たことがあり、日本軍の占領期間中に篠崎が博物館にやって来たのはその時だけだった[41]。
- スマトラ出身で、マレー人厚生協会の委員をしていたM.ガウスは、1943年の中頃の某日、昭南特別市の厚生課長として民族別の厚生協会を監督していた篠崎に呼び出されてマレー人厚生協会の他の委員も出席した会合に出席してみると、それはガウスを批判するために開かれた会合で、席上篠崎から「ガウスのマレー文化とインドネシア文化が同源であるとの主張がマレー人社会に分裂を生じさせており、戦争継続中であるからマレー人社会の一致団結に協力するように」と怒気に満ちた口調で要請され、いわれのない非難を受けて当惑した、としている。
- 篠崎 (1976, p. 101)によると、戦時中、華僑協会でエンダウへの中国系住民の「疎開」を提案したとき、「インテリ華僑」は篠崎のことを『孫大話、篠大話』(孫文の大ボラ、篠崎の大ボラ)と皮肉ったとされ、篠崎は仇名の出所を孫文と親交のあった 林文慶博士ではないか、としながら、「私は華僑の反応が愉快であった」と回想している。
- 篠崎は自著の中で、戦時中に連合国人や中国系住民に友好的に接したことを日本軍の某参謀から「利敵行為だ」と批判され、また戦後シンガポールに進駐した英軍保安隊に通訳として協力し、イギリス軍による戦犯裁判に検察側証人として出廷するなどしたことから、シンガポールに抑留されていた日本人から「英軍に寝返った」と疑いの目で見られたが、前者はあくまで人道主義に根差したもので、後者は英軍の戦犯調査班に引き渡す前に日本人の戦犯や軍政関係者を逃がすことが目的だった、としてこれを否定している。
- 日本の占領期間中に昭南憲兵隊特別警察隊(特警隊)に所属していた中山三男と石部藤四郎は、戦後に行われたインタビューの中で、戦時中、第5師団第11連隊が行ったイロンロン(ジュルンドン)村の粛清工作について、同村に共産党ゲリラがいるとの情報がライ・テクから提供された、という話の出所が、戦後、特警隊の山口・下村両隊員が英軍保安隊の取り調べを受けて共産ゲリラ対策について詳しく自供した際に通訳をしていた篠崎であることについて、「(石部:)篠崎もまたいい加減な男じゃ。わしも何回もつきあいしてんねんじゃがね。あれもその場その場で、なかなかファジイな男なんだよ。そういうこともまた全面的に100パーセント信用できないと思う。(…)俺は、ライテクの情報によって、イロンロン村のあの情報が5師団の11連隊に伝わったとは、考えられんわ。(中山:)自分らは考えられんですわ。」と述べている[45]。