湯元上山旅館
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湯元上山旅館(ゆもとうえやまりょかん)は、兵庫県姫路市夢前町塩田にある、創業1874年(明治7年)の老舗温泉旅館。塩田温泉で最初に創業した元湯旅館である[2][3][4]。
江戸時代中期に「田畑の中に塩の湧く処あり」と発見され、塩田温泉は源泉名を「塩ヶ谷鉱泉」と呼ばれ、飲泉場を含め3か所の源泉槽に自然湧出で地中から数か所の泉脈より300年以上湧き続けており、塩味ほのかなサイダー味の温泉で泉質は炭酸水素塩泉。上山旅館はその湯元である[5]。自然湧出であるために湯量は少なく、胃腸病に効能があるとして、古くよりは飲用温泉として活用されてきた歴史があり、胃腸に効く温泉として「飲めよ、飲めよ、塩田のいで湯」と謳われた[5]。昔は1日に1升ほど温泉を飲みながら入浴していた。胃腸病の薬泉として知られる[1]。このため、源泉場には薬師如来が祀られている。
当初、泉源は村の共有財産であった。上山旅館は、文部省通達によりその任を受けた飾西(しきさい)郡長が塩田温泉が播磨唯一の鉱泉であるにもかかわらず施設が整っていないことを憂い、村民を熱心に説得し、その熱意にこたえるかたちで2軒の旅館が創業したが、その1軒であった。上山家は代々源泉の管理を担ってきたが、明治初期の1874年から旅館業に転じた[6][7]。その後、塩田温泉郷として高度成長期には観光地化し、旅館も最盛期には5軒まで増えるが、平成期には上山旅館と夢乃井の2軒まで減少した。源泉には多くの効用があることと個人客へのもてなしを大切にしていることから、リピーターが多い。また、かつては湯治客が好んで食べていた「湯壺がゆ」や鍋料理に源泉が生かされている[1][3][4]。
2代目上山作右衛門は「娯楽、遊興は従とせよ」「湯治場としての本分を忘れるな」と家訓を残した[7]。温泉ブームの頃には、「新たにボーリングをして熱い温泉を掘り湯量も増やせばどうか」という提案もあったが、源泉を掘れば300年間続いた泉質が変わってしまうおそれがあり、館主はそれでは「塩田温泉」ではなってしまうと断り、現在に至っている[1][3]。
本館をはじめ、見晴館、椿館、東館の4棟と露天風呂を含め8つの浴室と飲泉所をそなえ、周辺の山林も含め敷地面積2万坪の広い庭園には塩田温泉薬師堂、目治し地蔵や赤い橋の架かる池、ヤマツツジ林、竹林、樅の巨木などが点在し、森の中の広場の様相を呈する。特にヤマモミジが新緑と紅葉の時期(11月中旬)には美しい。旧館の見晴館は敷地内にあった明治期建造の建物を高台に移転し改装を施した木造2階建てで、角部屋の13畳の和室は薄板を編んだ網代天井は職人技を伝えている[2][3][6]。
塩田という地名に関しては『播磨鑑』に「飾西郡、塩田村、此の村に潮のさす田地一區あり、よって塩田という由、此所に元文の頃温泉湧出で宿屋を構え諸方より入湯の人々夥し、右の潮を湯にわかして浴するに、諸病治せずということなし、其後沙汰なし、惜哉」と記されており、泉質に塩化物が含有されているために、塩が湧く田とされた。全国的にも「塩田」という地名が散在するが、その多くが温泉地であったり、温泉地の近くであったりする[3][6]。
上山旅館に残る『播州故事書抜粋 塩田温泉之部』には「元文丙辰元年秋八月我ヵ州古知之庄塩田に薬泉あることを聞き滞在するも三十五日、丹波、但州、摂津、備前、四国地方より多数の湯治客ありて諸病の全治せしこと…。また、湯元と称するもの十家、その内に医生古林瀬右ェ門吉政というものありて浴客を診療し居たりしが、『医者一人の治療を以ってしては数万の病苦を救うこと難し、然るに薬泉に浴する時は脈を診し薬を投ぜずしてよく万民の病難を救済す、アー自然の力、偉なる哉』など」と著されている[3]。
(以上[3] より。)
(平成13年8月16日 兵庫県立衛生研究所による分析)
合計8つの風呂がある。本館の大浴場にはヒノキ風呂と庭園風呂があり、時間によって男女の利用が入れ替わる[6]。
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