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日本の武士、官僚、政治家 ウィキペディアから
内海 忠勝(うつみ ただかつ、天保14年8月19日(1843年9月12日) - 明治38年(1905年)1月20日[1])は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。
内海忠勝 うつみ ただかつ | |
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生年月日 | 1843年9月12日 |
出生地 | 周防国吉敷郡吉敷村 |
没年月日 | 1905年1月20日(61歳没) |
称号 |
従二位 勲一等 男爵 |
第16代 内務大臣 | |
内閣 | 第1次桂内閣 |
在任期間 | 1901年6月2日 - 1903年7月15日 |
在任期間 |
1899年11月29日 - 1900年3月19日 1904年7月10日 - 1905年1月20日 |
在任期間 | 1900年3月19日 - 1901年6月2日 |
天皇 | 明治天皇 |
その他の職歴 | |
官選 第8代 京都府知事 (1897年11月 - 1900年3月) | |
官選 第8代 大阪府知事 (1895年10月10日 - 1897年11月13日) | |
官選 第3代 神奈川県知事 (1891年4月9日 - 1893年3月10日) | |
官選 第2代 長野県知事 (1889年12月26日 - 1891年4月9日) | |
官選 第9代 兵庫県令・兵庫県知事 (1885年4月18日 - 1889年12月26日) | |
官選 第2代 三重県令 (1884年7月10日 - 1885年4月18日) | |
官選 第6代 長崎県令 (1877年10月11日 - 1883年3月8日) |
周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。1901年、第1次桂内閣で内務大臣に就任し初入閣を果たした。
1899年(明治32年)11月29日、貴族院議員に勅選され[2]、1900年(明治33年)3月19日まで在任[2]。1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[1][4]。
山口市に「内海忠勝顕彰碑」が建立されている。
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