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いずみ 尚(いずみ ひさし、1962年8月9日[3][4] - )は、日本の俳優、声優、ナレーター[2]。秋田県大館市出身[1]。東京俳優生活協同組合所属[3]。旧芸名に泉 尚摯(いずみ しょうじ)[5]、ヰズミ(いずみ)[6]。
子供の頃は住んでいる所は平地であったが、山の中で育ったため、山の中を走ったり、秘密基地を作ったりしていた[7]。
子供の頃からテレビを見て、役者が芝居をしていたの見て「こういうのいいな」と思っていた[7]。大館市立城南小学校[8]を経て、大館市立第一中学校[9]に進学後の中学生ぐらいはブルース・リーの映画が好きで、『燃えよドラゴン』が公開されていた時は洋画専門の映画館に行けず、少し時間が経ち、『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』を「もう1人で見に行けるぞ」と言われ映画館で観に行っていた[7]。その時に併映されていたスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが出演していた『パピヨン』も観に行き、「あっ、こういう道に進みたい」と思ったという[7]。
秋田県立大館鳳鳴高等学校[10]に進学後、成績は右肩下がりをしてしまい、「やっぱりやりたいこともあるしな」と高校2年生の時に見ていた専門学校の本に掲載されていた横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演劇科に7期生[11]として入学[7]。その頃は漠然と何も分からい子供だったことから「映画俳優がいいか、テレビ俳優がいいか」と悩んでいたという[7]。
同映画専門学院卒業後、俳優の道に進もうとして事務所に所属[7]。たまに小さい撮影の仕事もあったが、「はい、お疲れ様」といった感じで全然仕事に繋がらず、全国の学校回りの芝居をしていた[7]。その後は小劇団に所属して、新劇の舞台活動をしていた[7]。
当時は映放部があったため、たまにテレビドラマに出演していた[7]。しかしいかんせん後に繋がらず、「役者として全然分かっていなかったな」という点が多数あった[7]。当時は借金もあったため「さて、どうしようか。とりあえずバイトしなきゃな」「一回清算しないといけないな」ということでアルバイトをしていた[7]。
その後、劇団の先輩から子供ショーの手伝いを勧められ、チームの人物に立ち回りを教えて貰いながら行っていた[7]。その後先輩の知り合いが設立した事務所に所属し、子供番組のキャラクターの着ぐるみを担当していた[7]。その時は外回りが多かったが、ロケに行くと危ないことが何度かあり、死にそうな思いもしたことから「これは歳食って出来る仕事じゃねえな」と悟った[7]。
その後、子供番組のキャラクターの着ぐるみをしていた流れでフジテレビの夕方の5分の帯で放送されていたキャラクターの着ぐるみを担当していた[7]。その時に所属していた事務所を退所した後、そのキャラクターの声を演じていた声優から「舞台やるんだけどさ、出る気ある?」と誘われる[7]。その延長線上でその声優が声優学校の主任をしており、「うち来ない?」と声を掛けた[7]。その時は声優の世界で全く経験がなく、目指していた芝居もセリフに頼らない芝居であったたため、「できますかね?」と不安になったが、「教えるから大丈夫だよ」と返され、声優としての活動を始める[7]。
以前は大坂事務所、ケッケコーポレーションに所属していた[3]。
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