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板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 1962年7月15日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授・法政大学教授を歴任。専門は、日本近世史・日蘭貿易史。
1895年1月5日に岩手県南閉伊郡釜石町(現・釜石市)の天台寺門宗の名刹観音寺住持・板沢真小雄と喜智の五男として生まれた。県立遠野中学校に入学し、中学時代に『台湾文化志』の著者・伊能嘉矩の家に寄寓してその感化を受け、これがのちに歴史学を志す契機となった。中学卒業[1]後に第二高等学校に進学[2]し、1916年7月に同校大学予科第一部英文科卒業[3]。同年9月に東京帝国大学文科大学国史学科に進んだ[4]。1919年7月に卒業[5]。
その後、宮内省図書寮勤務[6]を経て、1921年に学習院講師[7]となり、翌年教授に就任した[8]。1927年4月よりヨーロッパ(主としてオランダ)及びオランダ領東インドに留学した。この留学においては、日蘭交渉史関係史料の採訪と研鑽に努め、1929年に帰国した後は精力的に関係論文を発表して学界や教壇に活躍した。帰国後、東京帝国大学講師を経て、1938年に東京帝国大学文学部助教授[9]、1942年に教授[10]に着任した。
また、この間に帝国学士院の日蘭関係史料調査や史料編纂掛の欧文日本史料取調などを兼務した。こうした歴史研究の一方で、1939年に聖護院で得度、受戒し、郷里釜石の観音寺住職事務取扱となった。
敗戦後の1948年1月に公職追放[11]により東京帝国大学教授の職を追われ[12]、郷里観音寺に戻り、同寺の復興に努めた。1952年に法政大学教授に就任し、同職は没年まで務めた。また、天台寺門宗の教務部長や日本歴史地理学会会長も歴任した。
岩生成一は、板沢の研究成果について、次のように述べている。
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