松橋力蔵
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
松橋 力蔵(まつはし りきぞう、1968年8月22日 - )は、千葉県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
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名前 | ||||||
愛称 | リキさん | |||||
カタカナ | マツハシ リキゾウ | |||||
ラテン文字 | MATSUHASHI Rikizo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1968年8月22日(56歳) | |||||
出身地 | 千葉県 | |||||
身長 | 173cm | |||||
体重 | 65kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1984-1986 | 市原緑高校 | |||||
1988 | 日産FCファーム | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1989-1995 | 日産/横浜マリノス | 40 | (0) | |||
1996-1997 | 京都パープルサンガ | 27 | (3) | |||
1998-2001 | ジヤトコ | 79 | (15) | |||
通算 | 146 | (18) | ||||
監督歴 | ||||||
2009-2013 | 横浜F・マリノスユース | |||||
2015-2016 | 横浜F・マリノスユース | |||||
2022-2024 | アルビレックス新潟 | |||||
2025- | FC東京 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月21日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
要約
視点
東京都調布市の国領で生まれた[1]。幼稚園入園前に転居し、千葉県で育った[2]ため、一部のプロフィール[3]を除いて出身地は千葉県と記載されている[4][5][6]。少年時代はヨハン・クライフに憧れ、プレーを真似た[7]。
選手経歴
千葉県立市原緑高等学校卒業後就職するものの、サッカー選手になるべく日産自動車サッカー部のサテライトチームに相当する日産FCファームの選考を受けた[8]。合格とともに退職し、倉庫などのアルバイトをしながら[7]プレーを続け、1989年にトップチームに加入した。日本サッカーリーグ(1部)初出場は、1990年2月11日 第14節 対松下電器戦(神戸総合運動公園ユニバー記念競技場)であった。球扱いの巧みさ[7]もあり、「木村和司2世」との評価を得た[8]。松橋自身、影響を受けた人物として木村の名を挙げている[9]。
プロクラブとなった横浜マリノスにも引き続き在籍し、1993年サントリーシリーズ第18節ホーム名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初出場[10]。その後、1995年まで在籍し、クラブに貢献した。
1996年、Jリーグ昇格初年度の京都パープルサンガに移籍した。同年の第3節鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを記録[11]。京都では2シーズンにわたってプレーした。Jリーグでは、リーグ戦44試合3得点(横浜M17試合0得点、京都27試合3得点)、Jリーグカップでは18試合1得点(横浜M8試合0得点、京都10試合1得点)、天皇杯は3試合2得点。
1998年にはジャパンフットボールリーグのジヤトコサッカー部(当時はジャトコ)に移籍し4シーズン在籍、2001年シーズン終了を以て選手を引退した。ジヤトコ時代は、リーグ戦79試合15得点[3]、天皇杯5試合2得点。
指導者経歴
2002年から2シーズン、ジヤトコでコーチを担当した[3]。
2003年末のジヤトコサッカー部活動終了にともない、サッカーを離れて一般社員としての採用も選択肢にあったものの[8]、2004年1月に横浜F・マリノスのサッカースクールコーチに就任[3]。以降も横浜FMで主に育成組織の指導を担当し、天野純、喜田拓也、遠藤渓太などの育成に関わった[8]。
2015年10月22日、JFA公認S級ライセンスの取得が承認された[12]。
2016年11月21日、2017シーズンよりトップチームのヘッドコーチに就任することが発表された[13]。2018年から監督がアンジェ・ポステコグルーに変更になったが、自身はトップチームコーチとして指導に携わり、2020年末で横浜FMを退団した[4]。
2021年からアルビレックス新潟のトップチームコーチに就任した[5]。2021年12月6日、新潟の監督に就任した[14]。2022年シーズンには新潟を6季ぶりのJ1復帰、2003年以来のJ2優勝へと導いた。2024年のJリーグYBCルヴァンカップでは決勝に進出し、PK戦で名古屋グランパスに敗れたものの準優勝という結果を残した。
2024年12月13日、アルビレックス新潟の監督を今季限りで退任する事が公表された[15]。
2025年シーズンからFC東京の監督に就任[6]。
所属クラブ
- 1984年 - 1986年 千葉県立市原緑高等学校
- 1988年 日産自動車サッカー部ファーム
- 1989年 - 1992年 日産自動車サッカー部
- 1992年 - 1995年 横浜マリノス
- 1996年 - 1997年 京都パープルサンガ
- 1998年 - 2001年 ジヤトコサッカー部
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1989-90 | 日産 | JSL1部 | |||||||||
1990-91 | |||||||||||
1991-92 | 5 | 2 | |||||||||
1992 | 横浜M | - | J | - | 6 | 0 | 2 | 2 | 8 | 2 | |
1993 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | |||
1994 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | |||
1995 | 6 | 0 | - | 1 | 0 | 7 | 0 | ||||
1996 | 京都 | 17 | 3 | 10 | 1 | 0 | 0 | 27 | 4 | ||
1997 | 14 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | ||
1998 | ジヤトコ | 旧JFL | 22 | 3 | - | - | 22 | 3 | |||
1999 | JFL | 23 | 6 | - | 2 | 1 | 25 | 7 | |||
2000 | 22 | 6 | - | 3 | 1 | 25 | 7 | ||||
2001 | 12 | 0 | - | 0 | 0 | 12 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J | 44 | 3 | 18 | 1 | 3 | 2 | 65 | 6 | |
日本 | JSL1部 | 23 | 0|||||||||||| | ||||||||
日本 | JFL | 57 | 12 | - | 5 | 2 | 62 | 13 | |||
日本 | 旧JFL | 22 | 3 | - | - | 22 | 3 | ||||
総通算 | 146 | 18|||||||||||| |
指導歴
- 2002年 - 2003年 ジヤトコサッカー部 アシスタントコーチ
- 2004年 - 2020年 横浜F・マリノス
- 2004年 - 2005年 U-13 コーチ
- 2006年 - 2007年 ユース コーチ
- 2008年 トップチーム コーチ
- 2009年 - 2013年 ユース 監督
- 2014年 ユース コーチ
- 2015年 - 2016年 ユース 監督
- 2017年 トップチーム ヘッドコーチ
- 2018年 - 2020年 トップチーム コーチ
- 2021年 - 2024年 アルビレックス新潟
- 2021年 トップチーム コーチ
- 2022年 - 2024年 トップチーム 監督
- 2025年 - FC東京 監督
監督成績
タイトル
監督時代
クラブ
- アルビレックス新潟
個人
- J2リーグ・月間優秀監督賞:1回(2022年5月)
出典
関連項目
外部リンク
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