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日本の地理学者 ウィキペディアから
服部 銈二郎(はっとり けいじろう、大正10年(1921年)7月3日 - 平成25年(2013年)6月9日)は、日本の地理学者。専門は、都市地理学、地誌学、アーバン・アメニティ論[1]。立正大学名誉教授。日本地理学会名誉会員、日本都市学会顧問、アーバン・アメニティ研究所所長。
大正10年(1921年)7月3日、東京府東京市牛込区に生まれた[1]。間もなく南足立郡千住町に移り、千住町立千寿第一小学校(足立区立千寿本町小学校に統合)に入学した。短歌を趣味とする母の旅行に年数回連れられる内、自身も旅行好きとなり、高学年には一人で日本各地を旅行するようになった[2]。
東京府立第七中学校(東京都立墨田川高等学校)在学中、校友会雑誌に「奥羽地方の交通」「伊豆半島西海岸をめぐりて」を発表した。東京府立大泉師範学校(後東京第三師範学校)で地理学を専攻すると、2万5千分1地形図を片手に武蔵野を歩き回り、また池袋駅周辺の商店街の分布を調査し、「外郭的都心としての池袋付近の研究」を卒業論文とした[2]。同校専攻科に進学し、ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの環境可能論に傾倒した[2]。
昭和17年(1942年)3月卒業後、下谷区立東盛小学校(台東区立東泉小学校に統合)訓導に就職した。昭和18年(1943年)2月軍に召集され、中国に渡り、華北、華南の地理的対比を実感した[2]。昭和21年(1946年)8月復員し、台東区立東泉小学校教諭。
昭和22年(1947年)4月立正大学地理学科に入学した。永井荷風『日和下駄』を真似、軍靴と雑嚢を以って地形の露わになった東京を歩き回り、下町対山の手の構図、その結節点としての坂道の機能に興味を持った[2]。昭和25年(1950年)12月卒業、昭和26年(1951年)4月東京都立葛飾野高等学校教諭になった。
昭和30年代に高度経済成長が始まると、田中啓爾の下、川崎市の工業化を研究し、次に首都圏の都市問題を追究した[2]。こうして都市地理学に傾斜して行くが、これには自身が蛇が苦手なことも影響したという[1]。
昭和41年(1966年)4月、立正大学文学部助教授に就任。11月、「東京都における中心地の研究」により東京教育大学理学博士[3]。博士論文の主査は尾留川正平が務めた[4]。昭和44年(1969年)『大都市地域論』を著し、昭和47年(1972年)日本都市学会賞受賞[5]。
昭和47年(1972年)、上野桜木のダイユウビル一室にアーバン・アメニティ研究所を設立し、地域診断学と称して、浅間温泉を皮切りに日本各地の観光地、商業地域のコンサルティング事業を行った[6]。
立正大学においては、地理学科主任、図書館長、大学院研究科委員長を歴任し、平成4年(1992年)退官した[3]。また、東京教育大学、専修大学、山梨大学、埼玉大学、筑波大学、琉球大学でも非常勤講師として教鞭を執った[3]。
学会では、関東都市学会会長を経て、平成9年(1997年)から平成13年(2001年)まで日本都市学会会長を務め、関東都市学会による会費滞納問題に取り組んだ[1]。
平成25年(2013年)6月9日朝死去し、自宅近くの竜泉一丁目正燈寺において、立正大学名誉教授大塚昌利を委員長として葬儀が行われた[1]。
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