Loading AI tools
ウィキペディアから
日中双方の新聞記者交換に関するメモ(にっちゅうそうほうのしんぶんきしゃこうかんにかんするメモ)は、日中国交正常化前の日本と中華人民共和国の間における記者の相互常駐に関する協定であり、日中記者交換協定、記者交換取極[1]とも呼ばれていた。
1964年の日中LT貿易にて結ばれ、のちに1972年の日中国交正常化により失効した後、新たな記者交換取極が交わされた[1]。
1952年(昭和27年)、日本は、台湾の中華民国との間「日本国と中華民国との間の平和条約」(日華平和条約)を締結した。これにより、ともに中国における正統な政府であることを主張する中国国民党政府と1949年(昭和24年)中華人民共和国建国を宣言し北京を首都とする中国共産党政府のうち、日本は中華民国政府を「中国の正統な政府」と認めて国交を結んだ。
その後、紆余曲折を経て、1962年(昭和37年)に日本と共産党政府との間で「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、同政府が支配する大陸地区との経済交流(いわゆるLT貿易)が行われるようになった。
通常、国交の無い国への記者派遣は困難な場合が多いが、1964年(昭和39年)4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所は、日中双方の新聞記者交換と「貿易連絡所」の相互設置に関する事項を取り決めた。
会談の代表者は、衆院議員松村謙三衆議院議員と中日友好協会会長廖承志。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。
ここで取り決められた記者交換が後に言う「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」である。
記者交換に関する取り決めの内容は次の通り。
1968年(昭和43年)3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。この会談は、同年2月8日から3月6日までの間、松村謙三が派遣した日本日中覚書貿易事務所代表の古井喜実、岡崎嘉平太、田川誠一と中国中日備忘録貿易弁事処代表の劉希文、王暁雲、孫平化により、北京で行われた。
コミュニケの内容は、次の通り。
また、同日、先に交わされた記者交換に関する取り決めの修正も合意された。修正内容は次の通り。
この修正内容のうち、「会談コミュニケに示された原則」とは、会談コミュニケの中の「政治三原則と政治経済不可分の原則」を指す。
「政治三原則」とは、1958年8月に訪中した社会党の佐多忠隆・参議院議員に対し、廖承志(当時、全国人民代表大会常務委員会委員)が周恩来・総理、陳毅・外交部長の代理として示した公式見解以来、中国側がたびたび主張してきた日中間の外交原則である。1960年8月27日に発表された「周恩来中国首相の対日貿易3原則に関する談話」に現れる[2]。この後日本外務省は1968年に日中双方が確認した政治三原則として、次のように外交青書に記している[3]。
この政治三原則と政経不可分の原則に基づいて日中記者交換を維持しようとするもので[4][5]、当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにもかかわらず、対中関係を改善しようとする政府・自民党によって頭ごしに決められたという側面がある。[要出典]日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり[4][5]、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。[要出典]以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。[要出典]
この協定に関連する動きとして、文化大革命期に産経新聞を除く各メディアは中華人民共和国国務院の台湾支局閉鎖の要求を呑んで北京に支局を開局した。産経新聞は国務院の要求を一貫して拒否し、結果として1967年(昭和42年)に記者柴田穂が国外追放されて以降は、1998年(平成10年)までの31年間、北京に支局を置くことがなかった。
なお、この1968年(昭和43年)の記者交換協定の改定は、北京で改定交渉に当たった田川誠一らと中華人民共和国政府との間で「結論は一般には公表しない」ことが決められ、その内容も報道されなかった。この不明朗な措置は、後に「一部の評論家などから、日中記者交換協定が、中国への敵視政策をとらないという政治三原則に組み込まれ、報道の自由を失っているとの批判を招く」一因になったとされる[6]。
1972年の日中国交正常化の結果1973年末に失効となり[1]、この後日中両国政府間の記者交換に関する交換公文が締結された。
この協定に関連してかどうかは不明であるが、参考として記者が国外退去処分を受けた事例を述べる。
中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた[7] 。この時期は他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。
1968年(昭和43年)6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に渡って拘留される(鮫島事件)。
1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した[8]」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。
2002年5月に発生した瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件(ハンミちゃん事件)のビデオ映像を、共同通信外信部が世界に対して報道。この事件後6ヶ月間、共同通信記者に対して中国から取材・報道ビザの発行が認められなくなった[9]。一般観光客として入国は出来たものの、入国記者はジャーナリスト身分の保障がない状態が続いた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.