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日本の航空機メーカー ウィキペディアから
愛知航空機(あいちこうくうき)は過去に存在した日本の航空機メーカーにして、現在の日産自動車系自動車部品メーカー愛知機械工業の前身である。日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造した。
親会社の「愛知時計製造」は1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注し以後は多くの兵器を生産した。特に海軍と関係が深く、1912年(明治45年)に「愛知時計電機」と名を変えてからも、機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力した。
航空機の製造は第一次世界大戦後の1920年(大正9年)11月7日に「横廠式ロ号甲型水上偵察機」を完成させた所から始まる。まだ自力設計の能力はなく製造だけではあるが、主に水上機や飛行艇を生産している。例えば先の「ロ号水上機」は当時の主力水上機であり全生産数218機のうち愛知では80機を生産している。
1925年(大正14年)に当時のドイツではまだ無名だったハインケル社と提携、航空機の設計を依頼するなど関係を深めていった。1925年(大正14年)に戦艦「長門」から発進試験をしたHD25(後の「二式複座水上偵察機」)の時は、設計者のエルンスト・ハインケル自ら来日している。また1933年(昭和8年)に海軍から急降下爆撃機の試作を命じられた時も愛知はハインケルからHD66の製造権を購入、自社で製造した機体を提出した。この機体は「九四式艦上爆撃機」に発展する。後の愛知の代表作の一つ九九式艦上爆撃機はハインケルの元で勉強した尾崎紀男の設計であり、その楕円翼は一連のハインケルの機体に通じるものがある。
航空機設計に関しては 、当初より横須賀海軍工廠に技術者を派遣するなど技術向上に努め、航空機製造に進出してから5年後の1925年(大正14年)に「一五式甲型水上偵察機(巳号)」を初めて自社で設計した。この機体は正式採用とならなかったが後には自社設計の軍用機が採用されるまでに力を付けた。大戦中は「彗星」(設計は空技廠)「九九式艦上爆撃機」「零式水上偵察機」などを生産している。実戦には参加しなかったが伊400型潜水艦に搭載した「晴嵐」も愛知製である。変わったところでは水雷戦隊の夜間偵察用として開発された「九六式水上偵察機」や「九八式水上偵察機」(どちらも3座の偵察用飛行艇)も愛知で設計・製造された機体だった。
また航空用エンジンの生産も手がけ、1929年(昭和4年)にフランス・ローレン式水冷450馬力エンジンの製造権を買い入れて航空機用エンジンの生産を開始。大戦中は水冷エンジンの「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」になった。1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具に狂いが生じ、以後の航空機生産に大きく影響した。更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け[1]、そのまま終戦を迎えた。
第二次世界大戦後は早急に民需に転換する必要に迫られ終戦直後には印刷の仕事などもしている[2]。1949年(昭和24年)に新会社「新愛知起業株式会社」を設立し、1952年(昭和27年)に「愛知機械工業株式会社」と改称し現在に至っている。戦後はコニーシリーズの軽商用車などを製造、現在は日産自動車の子会社として自動車用エンジンやトランスミッションの製造等を手がけている。
「愛知時計電機」の1930年(昭和5年)までの主に航空機関連の項目を記載する。
以下は大戦前後の沿革
「AB-?」「AM-?」は社内呼称。
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