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意識のハード・プロブレム(いしきのハード・プロブレム、英:Hard problem of consciousness)とは、物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問題のこと。意識のむずかしい問題、意識の難問とも訳される。オーストラリアの哲学者デイヴィド・チャーマーズによって、これからの科学が正面から立ち向かわなければならない問題として提起された[1]。対置される概念は、脳における情報処理の物理的過程を扱う意識のイージープロブレム(Easy Problem of Consciousness)である。
意識のハードプロブレムは、1994年当時「意識に関する大きな問題は、もう何も残されていない」と考えていた一部の神経科学者や認知科学者、関連分野の研究者に対する批判として提示された。
当時の研究者が「解けた」と考えていたのは全て意識に関するやさしい問題ばかりであり(これを意識のイージー・プロブレムと言う)、真剣に議論されてさえいない「意識に関する本当に難しい問題」がまだ残されている、とした。それは具体的には次のような問題である。すなわち
チャーマーズは現象的意識は現在の物理学の中には含まれていないとし(ゾンビ論法)、ハードプロブレムは現在の物理学の範囲内では解決不可能とする。その上で、物理学の拡張を訴えている。ハードプロブレムはこれからの科学、とりわけ物理学が、真剣に向き合っていかなければならない問題として、心の哲学(心身問題や自由意志の問題を議論する哲学の一分科)を中心にその詳細が議論されている。
ハード・プロブレムとは 主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか、それは脳の物理的・化学的・電気的反応とどのような関係にあるのか、またどのようにして発生するのかという問題を指す(左図の上向き矢印で表現されている部分がハード・プロブレムである)。 意識のハードプロブレムは「物質としての脳がなぜ心を持つのか(心的機能を発揮できるのか)」といったぼんやりした問題ではなく、より限定された形の問い、「物質としての脳がなぜ主観的な意識体験を持つのか」という狭い形の問いである。主観的な意識体験を外部から観測する方法が無いため、科学的方法が通用するかどうかすら分からないという意味でハードであるとされている。
これに対してイージー・プロブレム(easy problem)とは、 物質としての脳はどのように情報を処理しているのか、という形の一連の問題を指す(イージー・プロブレムにおいては、上向き矢印で表現されている部分は扱われない)。医学、脳科学、生物学の分野で現在なされている研究というのは基本的にイージー・プロブレムについてである。
21世紀初頭現在も脳には未解明の問題が多数あるが、そのほとんどはこの区分の中ではイージープロブレムに分類される。たとえば「なぜ物質としての脳が、思考したり記憶したり判断したりできるのか」というのはすべてイージーな問題である。脳内にある何らかの神経回路、シナプスの状態、化学物質の状態などが、結果として思考、記憶、判断といった心的機能を可能としているであろうことは基本的に疑問の余地はない。そしてこうした問題を科学的に研究するにあたって方法論的な困難はない。この方法論的な困難がないという意味において、脳の物理的な過程の研究はイージーな問題であると分類される。
当然のことながらイージーな問題とは言っても、こうしたことを研究するにあたっては「実際にどう実験を組み立てるのか」「人員をどう確保するのか」「どういう装置・器具を使うのか」「そのための予算をどう確保するのか」といった現実的な問題は山積みである。しかし「いったい、何をどう研究したら、答えが出せるのかがそもそも分からない」といった困難さは、こうした研究にはない。つまり基本的な方法論の部分で途方に暮れるといった困難さが無いという意味において「物質としての脳がどのように情報を処理しているのか」といった問題はイージーな問題へ区分される。
ここでは意識のハード・プロブレムという概念が提唱されるに至った、科学史上の背景を概説する。
20世紀末ごろから、fMRIの進歩などにより、神経科学や認知科学はこれまでにないほどの急速な発展を遂げた。当然 意識に関する研究も膨大な数に上ったが、実験における技術上の制約から、物理的に観測可能な現象に関する研究以外はほとんど行われていなかった。これは当然といえば当然であり、ハードプロブレムという概念が広く知られた現在においても、この点については基本的に変化がない。しかしながら当時の問題点として、観測にかからない対象については議論をすることさえも憚られる、といった風潮があり、また、観測にかからないものは存在しないものとする、といった空気まであった。
しかし哲学の世界には、「意識」そのものを扱った一連の系譜が存在しており、カントやフッサールの現象学などに代表されるように、心的表象や現象などの概念を議論してきた長い歴史がある。これらの知識をひとつのバックボーンとして、当時の意識研究の状況を批判したのがチャーマーズであった。1994年当時、まだ駆け出しの研究者に過ぎなかった28歳のチャーマーズであったが、ハード・プロブレムの概念は大きい注目を浴び、ノーベル賞受賞者を含む各界第一線の研究者たちがこの問題について論文を寄稿した(フランシス・クリック、ロジャー・ペンローズ、ダニエル・デネット、コリン・マッギン、フランシスコ・バレーラなど)
ハードプロブレムの概念が広く知られるにつれ、「意識」(クオリア)は哲学の問題であると同時に、科学の問題でもあるのだという認識が科学者コミュニティーの間でも徐々に広がりつつあり、実験系の研究者の間でも、「意識」(クオリア)といった観測にかからない対象についての議論がなされるようになった。これにより以前のような閉塞的な議論状況は随分と緩和された。
意識のハードプロブレムという言葉はチャーマーズが作った言葉の中でも最も有名なものとなった。しかしチャーマーズの意図としては、これは意識に関する問題の状況整理のために下準備的な形で提示しただけの区分であった。彼の主張の中心的な部分はそれ以降にあった(デイヴィッド・チャーマーズ#研究を参照)。チャーマーズはスーザン・ブラックモアとのインタビューの中でこの状況を次のように語っている。
スーザン・ブラックモア - さっき簡単な問題(イージー・プロブレム)とむずかしい問題(ハード・プロブレム)の話をしてたけど、たぶんこの区別のことであなたは一番有名でしょう。いまやあらゆる人が、意識についての議論を始めるときにはハード・プロブレム談義から入るわよね。そういう区分けをするようになった経緯はなんだったの?
- デイヴィッド・チャーマーズ - 別にそれがさほど深遠な区別だと思ったことはないんだけどね。単に自明なことを言ってるつもりだったんだ。かつて1994年に、意識についての初のツーソン会議で論文を発表したんだけど、会議のはやい時期に壇上に上がって意識についてちょっと本質的なことを言うつもりだったんだよ。そこで「よし、それじゃまずは当たり前のことから始めよう−説明が必要なのは振る舞い(これはイージー・プロブレム)と、主観的体験(これはハード・プロブレム)だ」。さてこれは、もっと深遠なことを言うための入り口でしかないはずだったんだ。
- ところがご存じのとおり、みんなが覚えているのはその冒頭の五分間だけだ。たぶん、分野として問題にお手軽なレッテルがあると便利だったんだろうね。何も深遠なことや独創的なことを付け加えたつもりはないんだ。だって意識について本気で考えた人ならだれでも、主観的体験の問題がむずかしい問題なのは知ってるし、それも何百年も前からわかってたことでしょ。 — スーザン・ブラックモア[著] 『「意識」を語る』(2005年)、 山形浩生/守岡桜[訳](2009年) pp. 50-51 より ISBN 978-4757160170 (強調引用者)
チャーマーズが述べているように、この問題は特に真新しいものではなく、様々な哲学者・科学者が言及してきた歴史的によく知られていた問題である。以下でそうした歴史上の議論を、簡単にいくつか紹介する。
主観的感覚の問題についての歴史的に古い言及の例としては、古代ギリシャの哲学者で原子論を唱えたことで知られるデモクリトス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)による言及がある。
表面上は色がある、表面上は甘味がある、表面上はにが味がある、しかし実のところ原子と空虚あるのみ — デモクリトス 断片9
色や味が感じられるけれども、あるのは原子とその隙間(原子のない空虚)のみだと述べた。
近代科学の始まりの時期、17世紀から18世紀にかけて、主観的な質感の問題は主に科学者たちによって論じられた。イタリアの物理学者ガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)は「物質の形・位置・運動」といった客観的性質と、「色・音・味」などの主観的に経験される性質を対比させて論じた。
わたしが、ある質量とか物体を考えるとき、ただちにイメージとしてえがく必要にかられるのは、つぎのようなものだと考えます。つまり、そのものが、しかじかの形をして、境界と形態とをもっており、他のものと比べて大きいか小さいか、また、しかじかの場所にしかじかの時刻に存在し、運動しているか静止しているか、他の物体と接触しているかいないか、一個か多数個かということなのです。いかなるイメージをつくる場合も、物質をこれらの条件から切り離して考えることはできません。しかし、その物質が、白いか赤いか、苦いか甘いか、音を出すか出さぬか、芳香を発するか悪臭を放つか、というこういった条件をかならず含めて、その物質を理解しなければならぬとは考えません。それどころか、もし諸感覚がわたしたちにともなっていなければ、理性や想像力それ自身だけでは、それらの性質までは到達しないはずなのです。したがって、これら味や匂いや色彩などは、それがそこに内在しているかにみえる主体の側からみると、たんなる名辞にすぎないのであり、たんに感覚主体のなかにそれらの所在があるにすぎない、とわたしは思うのです。だから、感覚主体が遠ざけられると、これらの性質はすべて消えうせてしまうのです。 — ガリレオ・ガリレイ(1623年)『偽金鑑識官』山田慶児・谷泰訳 pp.357-358 ISBN 978-4-12-160110-0 (強調引用者)
ガリレイはこの問題についてある程度詳細に論じた後、この問題は大きすぎるため議論はまたの機会にゆずる、として話題を切り替えている[2]。後に別の場所で運動論の枠内でこの問題を解決しようと試みた[3]。
イギリスの物理学者アイザック・ニュートン(1642年-1727年)も、この問題に言及した。
赤く見える, または対象をそのように見えさせる均質光と射線(Rays) を、私は赤色にするもの、または赤を生じさせるもの(Red-making) とよぶ。…また私が光や射線に色がある、または色を付与されているというとき、それは哲学的にまた厳密に言っているのではなくて、大まかに、普通の人がこれらすべての実験をみていだくであろうような概念に従って言っているのであると理解されたい。なぜなら, 厳密に言えば射線には色はついていないからである。それらの中には、あれこれの色の感覚を引きおこす或る能力と性向(Power and Disposition) があるだけである。 音は、鐘、または楽器の弦、または他の音響を出す物体の中では、振動以外の何物でもなく、また空気中ではその対象から伝播されたその運動以外の何物でもなく、そして感覚中枢(Sensorium) のなかでは、それは音という形態でのその運動の感覚(Sense) である。同様に色は、対象の中では、あれこれの種類の射線を他の射線よりも豊富に反射する性向以外の何物でもなく、射線の中では、それらはあれこれの運動を感覚中枢に伝える性向以外の何物でもなく、そして感覚中枢ではそれらは色という形態でのこれらの運動の感覚である。 — アイザック・ニュートン (1721年) 『光学』 島尾永康[訳](1983年) p.126 (強調引用者)
哲学者による議論として、しばしば引き合いに出される有名なものとしては17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロック(1632年 - 1704年)による一次性質(Primary qualities)と二次性質(Secondary qualities)の区別がある(Primary/secondary quality distinction)。以下、『人間知性論』より。
およそ一つの物体の寸法・形・運動がもう一つの物体の寸法・形・運動にある変化を生むだろうということ、これは私たちの想念を越えない。〔いいかえれば、想うことができる。また、〕一つの物体の部分の、もう一つの物体の侵入に基づく分離、衝撃にもとづく静止から運動への変化、これらや似よったことは相互にある結合をもつように、私たちには想われる。で、かりにもし物体のこうした一次性質を知ったとしたら、物体相互のそうした作用についてもっとたくさんしることができただろうと、そう希望するのも道理といえただろう。が、私たちの心は物体のこういう一次性質とその一次性質によって私たちのうちに産みだされる感覚との間になんの結合も発見できない。したがって、たとえ二次性質を直接産むような〔物体の〕不可視な部分の寸法・形・運動を発見できたとしても、私たちは、ある二次性質の〔一次性質からの〕帰結いいかえれば〔一次性質との〕共存〔ないし必然的結合〕について絶対確実で疑いえない規則を確立できるはずがけっしてないのである。私たちは、〔ある物体の〕部分のどんな形・寸法・運動が〔たとえば〕ある黄の色・ある甘い味・ある鋭い音を産むかを知るどころではない。したがって、ある分子のある形・寸法・運動が、どんな色・味・音であれ、ある色・味・音の観念をどのようにして私たちのうちにかりにも産めるか、けっして想念できない。分子の寸法などと色などの観念との間には、想念できる結合がないのである。
— ジョン・ロック 『人間知性論』(1690年)、大槻春彦[訳](1977年)第四巻 p. 43 より ISBN 978-4003400746 (強調引用者)
ロックはこうした区分の着想を、自身の科学の個人的教師・指導者であった科学者ロバート・ボイル(1627年-1691年)の著作『形と質の起源』(The Origin of Forms and Qualities)から得た[4]。
19世紀のドイツの生理学者エミール・デュ・ボア・レーモン(1818年 – 1896年)は、『自然認識の限界』および『宇宙の七つの謎』において、人間が永遠に理解できないだろう問題として4つを挙げた。デュ・ポア・レーモンが解決不可能と考えた4つの問題は「物質と力の本性」、「運動の第一原因」、「自由意志」そして「主観的感覚」である[5]。
一方には、私の脳の中の一定原子の運動と、他方には私にとって根源的な、それ以上定義しようのない、否認のできない事実、即ち「私が痛みを感ずる、快を感じる、温かく感じる、冷たく感じる、甘きを味はう、薔薇の匂いを嗅ぐ、風琴の音をきく、赤い色を見る」というごとき事実、そしてそのことから生じる、同様に直接である確信、即ち「ゆえに私が存在する」ということとの間にはおよそ考えうるいかなる関係があるのであろうか。炭素、水素、窒素、酸素その他の原子の一定数がいかにならび動いているか、いかにならび動いたか、いかにならび動くであろうかによって、意味するところが一様でありえないということは全く、そして永久に理解できない。これらの原子の恊働ということからどうして意識が生起しうるのかということは、いかなる仕方においても知ることができない。 — エミール・デュ・ボア・レーモン(1886年)『自然認識の限界』 坂田徳男訳 p.52 (強調引用者)
レーモンの主張の特色は、主観的感覚の問題は人間には「永遠に」理解できないと主張した所にある。彼は自分のこうした立場を「イグノラムス・イグノラビムス」という標語で表した。レーモンの主張は当時の19世紀ドイツで大きい反応を生み、「イグノラビムス論争」と言われる議論を引き起こした。
近年の有名な科学者であると、たとえば量子力学の基礎方程式であるシュレディンガー方程式を発見したオーストリア出身の理論物理学者エルヴィン・シュレディンガー(1887年 - 1961年)がこの問題について語っている。以下、『精神と物質』の最終章より。
この最後の章で私は、かの著名なアブデラのデモクリトスの断片のなかで指摘された、まことに奇妙な事実について少し詳しく述べることにしましょう-奇妙な事実と申しますのは、日常生活で得た身のまわりの世界に関する知識も、実験室で苦心さんたんして行った実験によって提供された知識も、すべて直接の感覚に依存しているのですが、他方このような知識は、外界と知覚との関係を明らかにしてはおりませんので、自然科学の発見によってよたらされた外界に関する描像やモデルには、感覚的性質がまったくかけているということなのであります。私の信じますところ、この主張の最初の部分は、あなた方すべてが容易にお認めになるでしょうが、あとの半分はおそらくそれほど多くの人が認めるものではないでしょう。その理由は単純なことです。科学者でない人は概して、科学に対して絶大な敬意を表するものなのでして、その「とてつもなく精巧な方法」によって科学者が、人類に不明なことがらや、これからさきにも明らかにできそうにないことがらまでも解明できると信じているからであります。
…
観察されたことがらは、常に感覚的な性質に依存しているものですから、理論はこのような感覚的性質を説明してくれると安易に考えてしまうのです。しかしながら、理論は決して感覚的性質を説明するものではありません。
— エルヴィン・シュレディンガー 『精神と物質』「第六章:感覚的性質の不思議」(1958年)、中村量空[訳](1987年) ISBN 4-87502-305-7 (強調引用者)
少なくない人がこの問題を擬似問題、誤った直感に基づいたほんとうではない問題、として批判している。現代におけるこうした批判者として最も有名な人物はアメリカの哲学者ダニエル・デネットである。デネットはハード・プロブレムは多くの人が素朴に持つが、しかし誤っている疑問のひとつであるとして、この問題をハード・クエスチョン(Hard question、直訳:難しい疑問)と言い換えている。
チャーマーズの意識のハードプロブレムという名称を受け、人工知能研究者のティム・ロバーツは主観性と関わるある問題を意識の超難問(いしきのちょうなんもん、英:Harder problem of consciousness)と呼んでいる[6][7]。
ティム・ロバーツの言う意識の超難問とは「私はなぜこの私なのか」という問題。過去、現在、未来、世界に数多くの人がいて、それぞれが日々 色々なことを体験して生活するが、しかしなぜあなたは他の誰でもなく今のそのあなたの体験をしているのか、という問題。意識のハードプロブレム(物質からなぜ主観的体験が生まれるのかという問題)と別の、より難しい問題だろうとしてこの名とされた[8]。
ネド・ブロックは2002年に別の問題を Harder problem of consciousness という名前で提起している[9]。
日本では永井均がほぼ同様の問題を彼らより以前から提起している。
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